「仕事相手が全員年下」「自己模倣のマンネリ地獄」「フリーの結婚&子育て問題」……Twitterで話題を呼んだ〈フリーランス、40歳の壁〉。本物しか生き残れない「40歳の壁」とは何か、フリーとして生き抜いてきた竹熊健太郎氏がその正体に迫ります。著書『フリーランス、40歳の壁』では自身の経験のみならず、田中圭一さん(『うつヌケ』)、都築響一さん、FROGMANさん(『秘密結社 鷹の爪』)ほか、壁を乗り越えたフリーの話から「壁」の乗り越え方を探っています。本連載では一生フリーを続けるためのサバイバル術、そのエッセンスを紹介していきます。
 連載第3弾は、都築響一×竹熊健太郎対談!『POPEYE』『BRUTUS』といった雑誌の黄金時代に一度もサラリーマン編集者になることなく、フリーランスとして仕事を続けた都築響一さん。その後も『TOKYO STYLE』『珍日本紀行』で、独自の存在感を発揮、現在は月に一度のメルマガ『ROADSIDERS' weekly』を刊行しています。なぜ都築さんはフリーランスとして圧倒的な仕事をこなし続けることができたのか、その秘密に迫ります。一生、フリーを続けるためのサバイバル術がここに!

学生時代から働いて、
一度も「就職」したことなんてない。

竹熊健太郎(以下、竹熊) 都築さんは私より歳が4つほど上で、私がフリーで仕事をしてきたなかでいつも憧れる存在でもありました。僕の今回の本(『フリーランス、40歳の壁』)は、フリーで生き抜くことの難しさについての書こうと思っています。そこでずっとフリーで仕事をしてきた都築さんにぜひ話を伺おうと思って来ました。では、いきなり本題に入りますが、最初に業界に入られたきっかけを教えてください。

なぜ一度もサラリーマン編集者になることなく、仕事を続けたか――都築響一の場合。【前編】都築響一(つづき・きょういち)
1956年、東京生まれ。ポパイ、ブルータス誌の編集を経て、全102巻の現代美術全集『アート・ランダム』(京都書院)を刊行。以来現代美術、建築、写真、デザインなどの分野での執筆・編集活動を続けている。93年『TOKYO STYLE』刊行(京都書院、のちちくま文庫)。96年刊行の『ROADSIDE JAPAN 珍日本紀行』(アスペクト、のちちくま文庫)で、第23回木村伊兵衛賞を受賞。最新刊は『圏外編集者』(朝日出版、2015年)。現在、個人で有料メールマガジン『ROADSIDERS' weekly』を毎週水曜日に配信中。

都築響一(以下、都築) 業界に入ったのは、平凡出版(現・マガジンハウス)からですね。僕がちょうど上智大学に入った頃というのが『POPEYE』が創刊した時期(1976年)だったんですね。大学は1975年に入ったんだけど、その頃はスケートボードでよく遊んでいました。
 アメリカ現地の情報が載っていたこともあって『POPEYE』をよく読んでいたんですが、あるときハガキを編集部に書いたんです。そしたら、向こうも今の大学で何が流行っているか知りたかったみたいで、そこから編集部とやり取りが始まったんです。そうこうして編集部に遊びにいかせてもらったりしてるうちに、バイトとして雑誌制作を手伝うようになりました。当時はFAXもない時代だから、原稿を取りに行ったりとかお茶汲みとかそういったバイトをしていた。
 そのうち僕が英文科だったこともあり、現地の雑誌を訳すことも手伝うようになった。で、これだったら訳すより自分で書いた方が速いだろうと思ってライターとして記事を書くようになったんです。「時給いくら」から「原稿料一枚いくら」という世界に移ったんです。編集部に席を置いてもらって、編集の手伝いとライターをやっていましたね。

竹熊 都築さんが大学に入られた頃(1975年)というのは、1980年前後のキャンパスマガジン(ミニコミ)ブームとは被っていないわけですね。

都築 そう。それはもっと後だからあまり関わりはなかった。それで大学時代からそのまま編集部での仕事を続けて、その後もフリーで生きてきたので一度も「給料」というものをもらったことがない(笑)。

竹熊 就職したことがない?

都築 ないです。一度でいいからボーナスをもらってみたい(笑)。

竹熊 意外かもしれませんが私は実はもらったことがあるんです、5年だけ勤めていた大学で(笑)。でも勤め人は私には無理だということがそこでよく分かった。

都築 大学でいうと、僕も実は5年いたんです。最初は大学院に行こうと思っていたんですけど、『POPEYE』の取材でアメリカに連れていってもらうようになったとき、同世代がどんな小説を読んでいるか気になって聞いていくうちに詳しくなるわけですよ。それで、日本に帰ってきて大学でレポートを書いても先生にまったく通じないわけ。「現代文学」っていったってヘミングウェイどまり、みたいな世界だった。もう死んでいるのに。
 それで「大学は知識はあるけど、行動力はない」ことに気付いたんです。学生の頃に現実を追いかける面白さを先に知ってしまったから、ここ(大学)にいると腐ると思った。だから単位はほぼ足りていたけれど卒論を出すときも、アメリカへ取材に行って出せなかったんです。ホントに何年ヵ前まで、自分が卒業できていたかどうかも分からなかった。

竹熊 私も同じ。専門学校(桑沢デザイン研究所)を何も言わずにやめてしまいました。

都築 でも、それで困ることなんて何もないです。編集者に学歴なんか関係ないわけで。当時『POPEYE』編集部には中卒で暴れている人もいれば東大卒の人だっていた。どこの大学かなんて全く関係なかったです。

竹熊 就職すると考えたら多少は影響があるかもしれません。でもフリーでやっていくと決めたら全然関係ないですね。

編集には「学歴」も「給料」も関係がない。

都築 学生時代から働いていたようなものだし、就職するという発想はなかったですよ。今の就活みたいなものは当時なかったから。ところで、今の就活はひどいですね。大体、新卒一括採用っていわば「差別」でしょう? 当時の平凡出版は試験が厳しいなんてことはまったくなかったですよ。
 ……ところで出版社がダメになるときって色々あると思うんだけど、一つは「新社屋ビルを建てたとき」ですよ。もう一つはその「ビルにガードマンが立っているとき」。三つ目は「首から社員証をぶら下げられたとき」。この三つが揃うと、出版社は死にますね。

竹熊 大手出版社でも1990年代はじめくらいまではガードマンはいましたが、誰でも出入りできましたもんね。

都築 出版社はそうじゃなきゃダメでしょう。セキュリティが厳しくなったらただの企業になってしまう。あと、セキュリティがつくということはそれだけお金を生んでいるわけですよね。
「お金を生む」というのは、すでに雑誌のつくり方が違うわけなんです。それではリスキーな企画が出来なくなる。あと、「お金を生む」と必然的に社員の給料がよくなるわけです。つまり保守的になってしまう。その給料をアテにして35年ローンなんか組んでしまったらケツまくれないでしょう。僕は今、飲み屋に関わっていますけど「企画が通らない」なんて愚痴を言っているのは大体、一流出版社ですよ。小さい出版社は絶対に文句言わないですもん。「好きでやっているんですから」と。

竹熊 平凡出版も当時は自由でした?

都築 セキュリティも何もなかったです。食堂もタダだったんですが、よくわからない人はいつもいましたね。あとは元社員が近くでバーをやっていて、そこへ行くとお金は上司が払ってくれていた。「お金は払わなくていいから好きな人を連れてこい」と。

竹熊 内田裕也さんとかも来ていたんですよね?(笑)

都築 ええ、来てました、来てました。そういう「場」は大切なんです。

竹熊 僕はアリス出版というエロ系の版元から仕事を最初にもらったんですが、そこはアングラ系の人脈がものすごくありました。遠藤ミチロウが男優をやっていたり(笑)。

都築 それで僕は『POPEYE』と『BRUTUS』にそれぞれ5年間いました。契約ですらなく、机はあったので書いた分だけ報酬を得られるというフリーだった。それで10年間もいると、会社から記者にならないかという中途採用の誘いがありました。でも僕はそのとき断ったんです。給料はすごくよかったけれど、異動があるのがイヤだった。あと社員はやってもやらなくても同じ給料でしょ? そうすると仕事はフリーに任せて、組合にだけは熱心な働かない社員がいっぱいいたわけです。そういうのを見てすごくイヤだった。それで正社員にならなかったんです。
 その後いろいろあってマガジンハウスからは離れて、個人で単発の仕事をやるようになりました。景気がよかったので、それでまったく問題なかったですね。

竹熊 今から思えば、フリーターに近い働き方だったんですかね。都築さんはライターではなく編集者という意識が強いんでしょうか?

都築 そうですね。ライターというより自分で企画を考えて実現する編集者ですね。

竹熊 僕もその感覚に近いんです。ただフリーの編集者はなかなか難しくて、実質ライターで稼ぐ感じでしたが。写植を版下に貼ることをやったりもしましたけどね。エディタースクールに2年3年通うよりも、エロ本屋に半年いた方が仕事は覚えられる(笑)。

都築 エディタースクールなんて最低でしょう。学校に行けないやつが作るからおもしろいんです。