東日本大震災の大津波によって、児童・教職員84人という世界でも例のない犠牲者が出た石巻市立大川小学校。震災から1年半以上が経過したが、なぜこれほどの児童・教職員が犠牲にならなければならなかったのか、今もまだ真実は明らかになっていない。では、震災が起きたあのとき、行政は大川小学校や地域住民に、どのような対応を取っていたのだろうか。あの日、大川小学校のある釜谷地区に入り、津波からの避難を呼びかけた市の職員に、当時の状況について話を聞いた。
避難受け入れ体制の確認で大川小へ
「子どもたちは校庭で整列」か?
拡大画像表示
地震の後、宮城県石巻市の河北総合支所の職員は、6人が3台の広報車に2人ずつ分乗し、次々に支所を出発した。北上川河口近くの海岸寄りに立地する尾崎地区、長面地区の集落の住民たちを津波から避難させることが目的だった。
職員たちが支所を出た時間は、15時前後だったという。
北上川左岸の堤防上の道路を河口方面に向かうと、その途中、山から土砂や木が崩れ落ちていて、通行止めになっていた。そこで、一行は集落の中へと迂回。再び堤防に戻って進んでいき、新北上大橋を渡って、たもとの三角地帯で県道を左折、大川小学校のある釜谷地区の集落へと下りて行った。時間は、15時15分前後だったと思われる。
その途中、大川小学校にも立ち寄って、職員は車を降りている。小学校の体育館は、尾崎、長面地区の住民が避難してきたときに、受け入れ可能かどうかを確認するためだ。
「学校の先生から、“余震でライトが落ちてくるかもしれないので、危ないから無理です”と言われました。先生の中で、どなたがおっしゃったのかは、わかんないですね。子どもたちは、校庭で整列して、しゃがんでいたかもしれないですね。ほんの2~3分だったと思います。子どもたちの避難のことは、学校側に任せて、我々は海岸部に行くことになったんです」
拡声器で津波の襲来を知らせるも
釜谷地区の住民に焦りの色はなく…
こうして職員たちは、学校を出て、釜谷の集落を抜けて行った。ところが、谷地中の墓地(釜谷霊園)の辺りまで来ると、避難してきた長面地区の住民から、すれ違いざまに車を停めて、こう言われた。
「もう津波は、松原(長面地区の海岸部の松林)を抜けて来てる。これ以上行ったら危ないから、戻れ!」