高木兼寛鹿児島市内にたつ高木兼寛(右)と英医師 W・ウィリス の像 Photo by Maki

新型コロナウイルスの世界的流行は、オミクロン株の爆発的な感染拡大によって一段と深刻な状況を招きつつある。今ほど「疫学」への見識が問われている時代はないのではないか。さて、疫学の原点を考えるとき、明治初頭に実証的な疫学の重要性に気付いた高木兼寛(たかきかねひろ、1849~1920年)という医師がいたことを忘れてはなるまい。当時多くの人々が悩まされた脚気(かっけ)の治療・予防策に“麦飯”を推奨して効果を上げ、「麦飯男爵」との異名を得た高木の言行に脚光を当ててみよう。(ジャーナリスト  桑畑正十郎)

ウィリスに西洋医術学び、英国留学
日本で初めて「疫学」を実践

 薩摩藩の日向国諸県郡穆佐(むかさ)郷(現在の宮崎市高岡町)で、郷士の家に生まれた高木兼寛は、医師を目指し、鹿児島の蘭方医・石神良策に弟子入りする。ほどなく戊辰戦争(1868年)が勃発、高木は軍医として動員された。そこで、西郷隆盛や大山巌らが英国公使館から新政府軍に招聘(しょうへい)した医師ウィリアム・ウィリスに出会った。

 戦場で銃創や刀創に対して稚拙な手当てしかできない自分たち日本人医師に比べ、進んだ西洋医学の知識と高度な外科技術に高木らは衝撃を受けた。維新後、薩摩藩に招かれたウィリスが鹿児島医学校(鹿児島大学医学部のルーツ)の校長となり、高木はいち早くその門をたたいた。ウィリスの教えを受けて、認められた高木は教授助手となり、また併設の病院で患者治療にも当たった。

 明治5(1872)年、薩摩藩閥の海軍に請われて海軍病院勤務となった高木は、病院や軍医制度に関する建議を多数行い、大軍医(大尉相当)に昇進。さらに海軍病院学舎(のち海軍軍医学校)教官を務めていた軍医アンダーソンの勧めで、英国に留学することになった。

 セント・トーマス病院医学校(現在のキングス・カレッジ・ロンドン)で学んだ高木は、英国外科医、内科医、産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し、明治13(1880)年に帰国した。

 公衆衛生学などの発達を遂げた英国はいわば「疫学」先進地。5年の留学で英国流を身に付けた高木は、「病気の発生源や流行状態から予防の対策を講じる」という疫学を日本で初めて実践することとなった。