教職員には否認の生徒も
警察官には完オチ

 4つの記事には共通点があることに気付いた読者もいると思う。そう、前述の通り「見て見ぬふり」「隠蔽工作」だ。大人たちのひきょうな振る舞いは、子どもたちにとって「反面教師」という皮肉な現実といえる。こんな大人たちの裏側を、子どもたちはしたたかに見抜いている。だから、高をくくって「あいつら、怖くない」となめてかかるというわけだ。

 一方、教職員が情況を察知して加害児童生徒から聞き取り調査をしても「知らぬ存ぜぬ」「ダンマリ」を決め込んでいたのに、警察が介入した途端、全面的に認めることも多いらしい。やはり悪いことをしているという後ろめたさと、普段から犯罪行為と向き合っている警察官の迫力は教職員のそれとは別次元だろう。

 昭和の時代は鉄拳制裁も辞さない怖い教職員もおり、一定の抑止力になっていた。また「学校内部のことは学校で解決すべき。警察に頼るなどもってのほか」という風潮があり、学校は「聖域」のような感じだった。

 しかし鉄拳制裁は、令和の今なら一発でレッドカードだ。学校内部で解決すべきという風潮についても、教職員すべてが無責任で保身を優先する人物ばかりではないだろうが、やはり警察の力を借りるのが現実的だろう。

 筆者は現役の記者時代、中学生の自殺とみられる事案について取材したことがある。自殺した生徒のご両親が「気付いてやれなかった私たちが悪い」と、加害生徒らではなく自らを責める姿に、心が引き裂かれる思いだった。

 テレビのワイドショーなどでこうした事案が表面化する度に「自分の子どもがいじめられていないか、家庭で注意・観察してほしい」というコメンテーターの発言を耳にするが、逆もしかり。「自分の子どもが陰湿かつ悪質な犯罪行為に手を染めていないか」も注意・観察してほしいものだ。