「閉塞感」という言葉が使われて久しい。90年代初頭から使われているだろう。20年経った今でも、昨今の社会状況を的確に表現する言葉として、その価値は益々高まっているように思う。だが、閉塞感を英語に訳すのは難しい。ぴったり当てはまる言葉がないのだ。そもそも、そういう感覚がないのだ。

 アメリカ人ならこう言うだろう。「閉塞感?そんなに悩む必要があるの?今いる会社が嫌なら辞めればいいじゃないか。政治が嫌なら次の選挙で別の政党に投票すれば良いじゃないか」実に、単純明快である。

 なぜ日本人だけが閉塞感を感じるのか。それは、日本社会が簡単には変化できない構造になっているからではないかと思う。そこには制度の側面と日本人のマインドセット(心の持ち様)の側面がある。

 制度としては、国家公務員制度と大企業のガバナンスが堅固な構造を持っている点が指摘される。マインドセットとしては、一回の就職で死ぬまで楽チンな人生を送りたいと願う日本人のワンパターン化した人生設計がある。

国家公務員への権力集中が
地方や民間の活力を奪った

 国家公務員制度は戦後一貫して強大化してきた。自由民主党が50年の長きに渡って政権政党として君臨してきたことも影響している。国家公務員が広範な組織を作りだしたのは、1970年代前半に田中角栄が首相になった頃からではないかと思う。田中角栄は「政治家は選挙に勝つことだけを考えろ、頭を使うことは官僚に任せろ」が持論だった。田中政権の強い後ろ盾を得て、政治に関わりなく自分たちの権力を維持できる仕組みを作っていった。

 具体的には、国会の承認をできる限り経ないで済むように法律を作り、自らの裁量で民間企業に許認可を行えるように法律を作っていった。仲間内で人事を決め、自分たちの年金を手厚くして、退官後にも外郭団体、地方自治体、果ては民間企業にも天下りするポストを作った。天下りのたびに高額な退職金を手中に収め、公務員制度の中で出世していけば、死ぬまで安泰に過ごせる自己完結的な制度である。

 国家公務員への権力集中が、地方自治体の無力感を招き、民間企業の活力を奪っていった。彼らが変わらなければ、自分たちではどうにもできない「閉塞感」が多くの市民を憂鬱にした。

 昨年こうして肥大化した公務員制度にようやく政治のメスが入った。各省の上部に民社党員が入り、政治によるコントロールが効くようにし、事業仕分けで天下りの温床になっている不要な外郭団体を炙り出していった。政治の力で公務員の既得権益を崩そうとする第一歩が始まった。

 では米国ではどうだろうか。この国では国家公務員が政治を離れて大きな権力を持つことはない。大統領が代われば行政機関のトップはすべて変わる。大統領は選挙運動中に公約した政治課題を実現するために、行政機関のトップには最適な人材を外部から探してきて任命する。内部から昇格することは稀である。