「青木の死」で茂木派に激震、党役員人事に与える影響とは2000年6月、官房長官として記者会見に臨む青木幹雄。参院議員引退後も政界に隠然たる影響力を保持していたが、6月11日、川崎市内の病院で死去した Photo:JIJI

 参院議員引退から13年を経て、なお政界に隠然たる影響力を保持していた元官房長官の青木幹雄が6月11日午後8時35分、川崎市内の病院で死去した。89歳だった。出雲大社で知られる島根県大社町の網元の家に生まれ、度胸の良さと一本気な漁師かたぎは生涯変わることはなかった。同郷で早稲田大学雄弁会の先輩でもあった元首相、竹下登との出会いが青木の運命を変えた。大学を中退して秘書となり、島根県議から参院議員に駒を進めた。立場は変わっても青木は竹下の「城代家老」であり続けた。

 しかし悲劇が相次ぐ。竹下のまな弟子の小渕恵三が首相になると、参院議員では初めて官房長官に就任したのもつかの間、2000年4月に小渕が現職首相として脳梗塞で倒れ他界。小渕を追うように竹下も約1カ月後に旅立った。

 2人の死後、自民党最大派閥の平成研究会(当時の小渕派)は首相経験者の橋本龍太郎が引き継ぐ。しかし、橋本が再び総裁の座を狙って立候補した01年4月の自民党総裁選で小泉純一郎に惨敗。橋本派の逆襲を警戒した小泉が「橋本派外し」の人事を断行した。ただし小泉の人事は老獪だった。

 橋本派議員の“選別登用”を徹底した。直参の橋本派議員を排除し、逆に途中入会の“外様”を入閣させたのである。その筆頭が旧日本新党から自民党に入党し、小渕派に所属した現自民党幹事長の茂木敏充。それが今日の茂木に連なる出発点だった。橋本も06年に死去、一時は宏池会から平成研入りした元厚相の津島雄二が会長を務めたこともあった。平成研はどん底のときを迎えた。