ポテンシャルは十分だが
クラブのレギュラーには定着できず

 異例に映る決断に至った背景をひもとく前に、ここまでの鈴木のキャリアを振り返りたい。

 ガーナ人の父と日本人の母の間にアメリカのアーカンソー州で生まれ、さいたま市浦和区で育った鈴木は幼稚園でサッカーを始め、小学生年代からはゴールキーパー一筋でプレー。彩艶と書いて「ざいおん」と読む名前は、聖書のなかに登場する聖なる丘『Zion』に由来している。

 小学校5年生の時に浦和のジュニアに入団した鈴木は、中学生年代のジュニアユース、高校生年代のユースと順調に昇格。2019年2月1日に16歳5カ月11日でプロ契約を結んだ。その後もプロ選手のままユースに所属し、21年からは正式に浦和のトップチームに昇格した。

 正式に、と記したのはプロになった後の19年8月から、ユース所属のままトップチームの公式戦に出場できる2種登録選手として浦和に帯同していたからだ。もっとも、身長190cm体重91kgの巨躯(きょく)を誇る鈴木の名前は浦和でのデビュー前に、すでにヨーロッパで広く知れ渡っていた。

 19年秋にブラジルで開催されたFIFA・U‐17ワールドカップ。17歳以下の選手で構成される日本代表の守護神を担った鈴木は、俊敏さとしなやかさ、力強さを融合させた豪快なセービングを披露。オランダ、アメリカ、セネガルとのグループリーグを無失点で首位通過する原動力になった。

 脚光を浴びたのはセービングだけではない。敵陣の深い位置まで到達する豪快なロングキックや、低く速い軌道でハーフウェイライン付近まで投げられるスローイングを生み出す強肩を含めた非凡さのすべてが、マン・Uをはじめとするヨーロッパのクラブの目に留まったのだろう。

 稀有なポテンシャルを秘めた逸材の動向を、ヨーロッパのクラブは徹底して追跡する。このときからチェックリストに掲載された鈴木に関しては、一方で素朴な疑問も頭をもたげてくる。これだけの才能を持っているのに、なぜJ1リーグ戦で1桁の出場試合数にとどまっていたのか、と。

 そう。鈴木は才能十分にもかかわらず、浦和のレギュラーではなかったのだ。

 これにはゴールキーパーという特殊なポジションが関係してくる。試合に出られるのは1人だけで、先発した選手が負傷交代か退場処分を受けない限り、試合途中での交代出場はない。

 フィールドプレーヤーと異なり、レギュラーのキーパーを代える理由も限られてくる。けがで戦列を離れた場合かレギュラーが極度の不振に陥った場合、あるいはチームの嫌な流れを変えたい場合などとなる。チームにレジェンドが君臨している場合は、世代交代の機会もなかなか訪れない。

 そして浦和では、現役のキーパーでJ1最多出場を誇る西川周作がゴールマウスを守り続けている。J1記録となる無失点試合182(8月18日現在)を数え、日本代表としても14年のブラジルW杯代表に名を連ね、通算31試合に出場している37歳の西川の背中を鈴木はずっと追ってきた。

「越えなければいけない存在でした。正直、西川さんを越えてから移籍したいと考えていましたが、それが達成できなかったことには自分の力不足を痛感しています。ただ、いまは越えられなかったとしても、必ずいつかは越えたいと思いますし、越えられるように頑張っていきたい」