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「セクシー田中さん」を巡る議論が続いている。優れた漫画家の自殺に人々の注目が集まるのは当然であるが、私は、その議論が的外れのような気がしてならない。(名古屋商科大学ビジネススクール教授 原田 泰)

原作通りではないことを
批判するのは的外れ

 議論に入る前に、何よりも、作者の芦原妃名子さんに哀悼の意をささげたい。

 現在の議論で、マンガ原作のテレビドラマが原作通りにならないことを説明しているものが多いが、私は、それは的外れだと思う。なぜなら、問題は、原作通りにならないことではなく、それが分かっているのに、原作通りにしますと言ってしまうテレビ局の体質にあるからだ。

 マンガの原作をテレビドラマ化したものが、原作通りにならないのは当然のことである。どう変更されるかも、意外なことではなく、当然に予想できることである。テレビ局は、原作者が原作通りを望んだとしても、そうはならないことをまず説明するべきである。それをしないのは、日本のエリートに率直さと正直さが欠けているからであり、また、人手不足で丁寧な仕事ができないからではなく、人が多すぎるからだ(詳しくは後述)。

 原作と映画が異なることで有名な映画に、アラン・ドロン主演、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』(1960年)がある。原作では完全犯罪が成功するのだが、映画では失敗する。なぜそうなったかというと、当時の映画では、「犯罪は引き合わない」という教訓になっていなければ、社会的に批判される恐れがあったからだ。

 マンガでは許されることでも、テレビでは許されないことは多々ある。もちろん、マンガと人間の登場するドラマという表現の本質的な違いもあるが、さらにテレビ特有の事情も絡む。原作者の芦原氏は、ブログで「漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう」「個性の強い各キャラクター、特に朱里・小西・進吾は原作から大きくかけ離れた別人のようなキャラクターに変更される」「性被害未遂・アフターピル・男性の生きづらさ・小西と進吾の長い対話等、私が作品の核として大切に描いたシーンは、大幅にカットや削除され、まともに描かれておらず」と述べている(『だから日テレは「セクシー田中さん」を改変した…なぜか原作通りにはならない「テレビドラマのジレンマ」』プレジデントオンライン2024/2/10より引用)。

 マンガの読者は、マンガを読み慣れた人であり、平凡な展開を好まない人が多い。だから、王道を外した展開が読者に刺さり、人気を得ることができる。

 しかし、テレビの視聴者はそうではない。一生懸命見ている人はマンガほど多くはないだろうし、倍速視聴している人は、意外な展開について行けないだろう。個性の強すぎるキャラクターでは、視聴者は戸惑う。性被害未遂・アフターピル・男性の生きづらさなどは、テレビ的なテーマではないとされる。

 また、長い対話は、セリフの内容がテレビ的かどうかもさることながら、役者の力量の上でも困る。芸能プロから拙い演技力の役者を割り当てられていれば、そんな長ゼリフはカットするしかない。

 つまり、テレビとは原作に忠実にはなり得ないものである。さらに、テレビ局内部からの、訳の分からない「謎の横やり」も入る。これらはテレビ局にいる人は当然に理解していることだろう。

 にもかかわらず、なぜ、テレビ局は、原作に忠実に製作するなどと原作者に約束するのだろうか。上司から「原作者のOKを取ってこい」と言われ、一方で原作者から「原作に忠実に」と言われたら、「はい、忠実にします」と答えてOKを取る。こうした人材がとりあえず「できる部下」として生き残ってしまうからだ。