神保 これは過去のことも含めての原因ということですね。過去がどうこうではなく、それに我々がどのような意味を与えているのかが我々を縛っていると。何となくわかる感じもするんですが、もうちょっと説明が欲しいかなと。

岸見 過去だって変わるんですよ。実際には。昔のことだから変わらないと皆さん思っているのですが、過去の意味付けさえ変えれば過去は変わります。たとえばカウンセリングで、できるだけ生まれて間もない頃の記憶を思い出してもらうことがあります。「早期回想」と言って、治療の場面でよく使います。昔のことを話して下さいと言うとほとんどの人はそれほど警戒せずに喋ってくれます。どんな短い断片的な思い出でもいいから話して下さいと言うと話してくれるんですね。
 で、ある男性が小さいときのことを話してくれたんです。彼の幼少時はまだ街に野良犬がいるような時代で、彼のお母さんが「犬はあなたが逃げたら追いかけてくるから、出会ったらじっとしていなさい」と言ったと。そしてあるとき友達と連れ立って歩いていたら向こうから大きな犬が来たそうです。で、友達はパッと逃げたけれど、自分は母の言うことを守ってそこに留まっていたと。何が起こったかというと、その犬に足をガブリと噛まれたそうです。
 回想はそこで終わっているのですが、少し考えればわかるように、実際はそこで話が終わるわけがないですよね。次のストーリーがあるはずです。あるのだけれど、彼はその時点では思い出せない。なぜかというと、今現在の彼が「この世界は危険なところだ」と思っているからなのです。あるいは周りの人はすごく怖い人でうかうかと信用してはいけないと考えている。だからその先のストーリーが思い出せなかったんですね。
 けれど、カウンセリングが回を重ねるなかで、「人々は私の仲間である」と思い始めた彼は、あるカウンセリングのときに「あの次のストーリーを思い出しました」と話し始めました。過去自体は変わりません。だから噛まれたところまでは同じです。けれど、そのときにたまたま自転車に乗ったオジサンがやってきて荷台に載せて病院まで連れて行ってくれました、と。これだと全く違うストーリーになりますよね。彼の過去は、犬に噛まれた点は変わらないとしても、意味付けは全く変わるんです。すっかり違うものになるでしょう。意味付けというのは、そのように理解するとわかりやすいと思います。

宮台 経験に与える意味に関して、アリストテレスに照らせば、フロイトのトラウマ概念が作用因、アドラーの目的概念が目的因に当たるという話が出ました。それを理解するために僕の経験を話します。僕は本を書く際、読者にミメーシス(感染的摸倣)を与え、内発性を呼び覚ますことを意図します。
 すると、多くの読者は「僕のようになろう」と目標を立てます。でも人はそれぞれリソースが違うから、必ずしも僕ができたことができません。すると、自罰的なるか、他罰的になって僕を恨みます。これは間違った展開で、「僕のようになろう」という設定に目標混乱があるんです。
 目標混乱はまずい。「僕のようになろう」と思う理由を考えることで、本当の目標つまりアリストテレスの最終目的──第一原因(究極原因)の対概念──に気づけます。最終目的に照らせば、「僕のようになる」ことは手段に過ぎず、「僕のようになる」ことが効果がなければ別の手段に取り替えなければならない。
 岸見先生のおっしゃる「経験に与える意味は目的との関連で決まる」とはそういうことです。「僕のようになろう」としてうまくいかず僕を恨む人は、「僕のようになろう」としたのが「最終目的のための手段」に過ぎず、取り替えが効く事実に気づけば、僕を恨むという「宮台からの呪い」から自由になります。
 トラウマに象徴される「過去からの呪い」と、人への恨みに象徴される「他者からの呪い」から自由になるには、アリストテレス的な意味での最終目標をイメージする力が重要です。それが岸見先生のおっしゃることのポイントです。最終目標を設定して「経験に意味を与える」のは、僕たち本人です。