神保 やはりトラウマがあると思っていることが根っこにあるんですか? トラウマがあるから今自分はこうなっているというのは、アドラーが最も否定するところですよね。そこが大きな分かれ目になってしまう?

「自分は変わりたい」と言う人が、<br />実は「変わらない」と決心をしているのはなぜか宮台真司(みやだい・しんじ)
首都大学東京教授/社会学者。1959年仙台生まれ。東京大学大学院博士課程修了。東京都立大学助教授、首都大学東京准教授を経て現職。専門は社会システム論。博士論文は『権力の予期理論』。権力論、国家論、宗教論、性愛論、犯罪論、教育論、外交論、文化論などの分野で著書多数。主な著作に『制服少女たちの選択』『終わりなき日常を生きろ』『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』『14歳からの社会学』『日本の難点』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』などがある。宮台真司オフィシャルブログ

岸見 カウンセリングでは必ずしもトラウマという言葉は出てこないです。ある種の人たちはそう言うかもしれませんが、普通の人の話題には出てこないですね。ただ、本当の自分とか仮の自分という言い方は、病気とか心の傷の文脈を離れてもあります。たとえば「ついカッとして」というのは、本当の自分はついカッとするような人間じゃないんだと言いたいわけです。
 アドラー心理学のことを本来は個人心理学と言いますが、個人というのは英語で言うとインディヴィジュアルです。これは「分けることができない」という意味です。何が分けられないかというと、意識と無意識、感情と理性、身体と精神など、そういったあらゆる二元論にアドラーは反対するわけです。つまり、分割できない全体としての人間を扱う心理学ということです。その流れで今の宮台さんの話を見れば、本当の自分と仮の自分なんてあり得るわけがないことになりますね。「この私」しかないということです。

神保 その延長になると思うんですが、「あなたの不幸はあなたが選んでいるものだ」ということが『嫌われる勇気』には書いてあります。しかし、わざわざ自分で選んで不幸になるわけがないじゃないかと青年も怒っていましたが、これはどういうことでしょうか?

岸見 こういう言い方をしていいかわからないですが、不幸であることが自分にとって有利だと考える人は不幸であることを選ぶ、ということです。不幸にはいろいろな意味がありますが、たとえば病気であれば周りの人は腫れ物に触るように付き合わなければいけないわけです。本当は病気から解放されて元気になりたいのだけれど、病気で弱っているときのほうが皆が良くしてくれる。であればどちらを選ぶかというと、不幸のままのほうを選ぶ人もいるというようなことですね。

神保 うーん。それはあらゆる場合にそうなんでしょうか? 明らかに恵まれない境遇に生まれ育つ人もいますよね。であれば、いくら何でも自分の場合は不幸を選んだなんて言われたくない人もいるのでは?

岸見 いや、境遇の問題ではないのです。どんな貧しくて一般的には不幸な境遇に生まれたからといって皆が不幸になるわけではありません。

神保 たしかに心の問題ですよね。

岸見 逆に裕福な家庭に生まれても不幸な人は不幸じゃないですか。ここでギリシア哲学の話をしますと「ソクラテスのパラドクス」として知られる、「人は誰もが悪を欲しない」ということがあります。でも、悪を欲しないと言っても、世の中には不正を犯す人だっていっぱいいるじゃないかと思いますよね。政治家なんて皆そうじゃないかという人もいます。しかしギリシアの、もっと言うとプラトンなのですが、プラトンが悪とか善という場合、そこには道徳的な意味は全然なくて、悪は「ためにならない」ということなのです。で、善は「ためになる」ということです。
 そういう意味として「人は誰もが悪を欲しない」という言葉を振り返ってみると、誰も自分のためにならないことは欲しないということになります。考えてみれば当たり前のことです。ただ、何が自分にとってためになるかならないかという判断を人間は誤ることがあるのです。私は不幸が自分のためになるとは思わないですしアドラーも否定するでしょうが、不幸であるほうが自分にとってためになる・善であると判断した人は不幸であり続けるのです。そういう意味では自分で選んでいるとしか言いようがありません。