今回からは趣向を変えて、第2次世界大戦欧州戦域で行われた軍事作戦・戦術上のイノベーションについて、マネジメントの視点から見てみたい。まず取り上げるのが、ドイツ軍によって行われた「電撃戦」である。

緒戦を制した「電撃戦」

 第2次世界大戦は1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻したときから始まった。正式にはその2日後、9月3日に、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリスが、同盟国フランスとともに、ドイツに対して宣戦布告したことによる。この1週間前、1939年8月23日には独ソ不可侵条約が結ばれ、同時に秘密議定書で独ソによるポーランド分割が合意された。その2日後、8月25日には先述したイギリスとポーランドの相互援助条約が結ばれた。各国の関係が変化するなんとも慌ただしい流れの中で、大戦が始まったのだ。この日から、ベルリンが陥落してドイツが無条件降伏する1945年5月7日(降伏文書調印は翌日)まで、人類史上未曽有の戦いが繰り広げられたのである。

 第1次世界大戦での敗北により、ドイツは過酷な賠償を課されたうえ、軍備は厳しく制限された。1919年6月28日に締結されたヴェルサイユ条約によって、ドイツの軍備は大幅に制限された。陸軍兵力は10万人以下に、海軍兵力は1万5000人規模とされた。保有数兵器・艦艇なども制約された。

 政権を奪取したヒトラーが1935年3月に再軍備宣言をするまで、表向きにはこうした制約下にドイツ国防軍は置かれていた。だが実際には、1922年のソ連とのラパッロ条約の秘密条項に基づいて、ソ連領内などに置かれていた秘密基地で、新兵器の開発や、戦車や飛行機を使っての画期的な戦法を地道に修得していったとされる。このような水面下の動きによって、再軍備は急速に進んだのだ。電撃戦の元となるコンセプトは、こうした軍備の制約の下で考え出されたものらしい。

 9月1日のポーランド侵攻で、「電撃戦(殲滅戦の一形態という指摘もある)」は圧倒的な威力を発揮した。17日にソ連も侵入してきたことで、ポーランド政府は1カ月も経たずに亡命を余儀なくされてしまった。