「共同の課題」にすべきこと、
すべきでないこと

神保 課題の分離は簡単にできるものでしょうか?

岸見 よく考えればすぐ理解はできるはずです。でも、あまり理解したくない人が多いのかもしれないですね。先ほど言いましたが、課題の分離について説明すると、多くの親はそれを認めつつも首をかしげるわけです。

「ほめて育てよ」は間違い。<br />ほめることはその人を見下すことである神保哲生(じんぼう・てつお)
ビデオジャーナリスト/ビデオニュース・ドットコム代表。1961年東京生まれ。コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了。AP通信記者を経て93年に独立。99年11月、日本初のニュース専門インターネット放送局ビデオニュース・ドットコムを設立。著書に『民主党が約束する99の政策で日本はどう変わるか?』『ビデオジャーナリズム―カメラを持って世界に飛び出そう』『ツバル-地球温暖化に沈む国』『地雷リポート』、訳書に『食の終焉』などがある。ビデオジャーナリスト神保哲生のブログ

神保 そうでしたね。

岸見 言われればわかるのです。言葉ではわかる。けれど認めたくないという人が多い。

宮台 それは認知的整合化のなせるワザです。そうした親の場合、子どもの課題と自分の課題を混同することで自分の人生目標が与えられ、それによるプライミングで今の優先順位が決まっている。だから、子どもと自分の課題が別だと認めた瞬間、「あれ、私は今日からどうやって生きていけばいいんだろう」となる。だから認めたくないんです。

神保 自分の人生を生きていなかったわけですね。

宮台 そのとおりです。

神保 とはいえ岸見先生、「自分からはあまり勉強しないタイプだったけれど、親からうるさく言われたので仕方なく勉強した。そのお蔭で今はそこそこの状況にある」と思っている人はけっこういると思うんです。僕なんかも親に言われなきゃ全く勉強しなかった気がする。それはどう考えたらいいですか。

岸見 それは「お蔭で」と言えるような意味で成功したり何かを達成ができたからそのように言うわけであって、逆のケースのほうが圧倒的に多いかもしれません。結局、自分の人生なのに自分で責任を取らず親任せにしている。たまたま結果が世間的にいう成功だっただけですよね。

神保 「お蔭で」っていうのは、逆のケースだと「せいで」になるわけですね。

岸見 そうです。

宮台 神保さんだって、言われなくても高校2年生から突如勉強し始めることもあり得たでしょう。

神保 ああ、当然そうでしょうね。

宮台 親に言われて勉強した結果、そうなったと思っているけど、実際には他のルートを通ってもそうなったかもしれない。あるいは、もっとよくなったかもしれないわけです。

神保 たしかに、親に言われたからこの程度しか勉強しなかったのかもしれないしね。

宮台 「〜のお蔭で」は、問題を過去に帰属させたり他者に帰属させたりする外部帰属化です。子どもにとっては責任逃れで、親にとっては自分の手柄にする夜郎自大化です。