神保『嫌われる勇気』では縦と横の関係に関連して、「共同体感覚」という話が出てきます。縦の関係では共同体感覚が実現できないと。そこのところ説明していただけますか。一般的に言われているコミュニティ的な意味での共同体と同じなのかも含めて。

岸見 共同体感覚(Gemeinschaftsgefühl)という概念は、この言葉だけではそれが何を意味するかわかりません。アドラーは、これを「ミットメンシュリッヒカイト」(Mitmenschlichkeit)とも言い換えています。「人と人」(Menschen)が「共にある」とか「結びついている」(mit)という意味です。そういう関係を考えたとき、それは縦ではあり得ない。横でしかミットはできないと私は理解しています。

宮台 「課題の分離」と関係づけます。社会システム理論では、融合(フュージョン)と、分離されたものの統合を、区別します。レヴィ・ブリュールによれば、未開社会にも共同体がありますが、そこではフュージョンがポイントになります。「自分と他者」の融合や、「人と物」の融合です。
 近代社会では「自己と他者」も「人と物」もいったん分離されたので、上からあるいは外からの統合要求は、抑圧を生みます。そうではなく、「課題の分離」を達成した人たちが、〈内発性〉ゆえに相手と同じことを喜ぶのが、良い。相手の喜びが自分の喜びになる相互的な関係を軸としたとき、初めて「課題の分離」と矛盾しない共同体が見えてきます。
 神保さんが言った「共同体」は、「課題の分離」と矛盾する抑圧的なものです。日本にはそれが目立つのです。たとえば学校では「君はなぜ自分の目標ばかり言うんだ」「皆で同じ目標を達成しようと頑張ってきたじゃないか」と体育会的です。それも共同体と呼ばれますが、「課題の分離」が貫徹したアドラーの言う共同体の、反対物です。

ほめることは
相手を見下した行為

神保 僕は意外だったんですが、アドラー心理学では「ほめるのはダメ」なんですね。ほめるのは縦の関係だと。

岸見 はい。そのことを知らないと、「叱らずにほめて育てよ」と皆が言うので、多くの親は子どもをほめて育てます。ところが、それではうまくいきません。子どもをほめるとはどういうことかをまず考える必要があります。たとえばカウンセリングに母親が3歳の子どもを同行してきたとしましょう。カウンセリングはだいたい1時間ぐらいなのですが、その間子どもは母親の隣で待たないといけない。子どもは自分が置かれている状況の意味を確実に把握できると僕は信頼していますから、1時間おとなしくしていたからといって驚きはしません。ですが親はひどく驚いて、カウンセリングが終わったときに「えらかったね」「よく待てたね」とほめる。では同じような状況で、夫のカウンセリングをしているときに妻が待っていたとしましょう。1時間経って終わったとき夫は妻になんと言うでしょうか。

神保 「お待たせ」かな。

岸見 どうして「えらかったね」と言わないんですか。

神保 ああ、そうですね。子どもだったら言うのに。

岸見 そこがポイントなのです。「子どもは待てない」と思っているわけです。それなのに思いがけず待てたから「えらいね」とか「よく待てたね」という言葉を発する。でも大人同士でそんなことを言ったら失礼じゃないですか。だから「ほめる」というのは、能力のある人が能力のない人に下す評価の言葉なのです。

神保 「ほめる」というのは、上から下だと。

岸見 縦関係が前提ですね。横の関係だと絶対にほめはしない。

神保 しかし「勉強しなさい」と言ってはならず、自分で勉強しているのを見て「えらいね」と言ってもいけない。どうしたらいいんでしょうか。

岸見 たとえば今の場面だと、大人同士ならなんて言うでしょうか。もちろん「お待たせ」でもいいですが。子どもも言われて嫌ではない言葉がけはなんでしょう。

宮台 僕だと「ありがとう」かな。

岸見 そうですね。「ありがとう」がすぐに出てくる人は少ないです。「ありがとう」というのはほめているのではなく、子どもの貢献に注目した言葉です。1時間おとなしくして親に貢献したということを子どもに伝えているわけです。貢献を伝えられた子どもは、自分に価値があると思えます。「ああ、自分は人の役に立ててよかったな」と自分の価値を認められるようになる。ところが、ほめられた子どもは自分に価値があるとは思わない。どこか馬鹿にされたような気がする。なぜかは子どもにはわからないでしょうが。

神保 では、ほめれば喜ぶだろうと思うのは間違いですか。

岸見 間違いです。小さな子どもさんを観察すればすぐわかることですが、ほめられた子どもはすごく嫌な顔をしています。それを知らないから親は観察しませんが。われわれ大人がもし「えらいね」と言われて嫌であれば、子どもも嫌なのです。それなのに大人と子どもは違うというのは、差別の論理だと私は思います。

神保 逆に、ほめられると喜ぶような子どもだと要注意ですか。

岸見 要注意です。

宮台 普通に敏感なら、「よくできたね」って言われたら、「できないと思っていたんだな」と感じます。大人に言わないのは、それが伝わっちゃうことを知ってるからです。ならば、なぜ子どもには伝わらないと思っているのか。子どもはほめるものという思考停止があるからでしょう。こういう思考停止は性愛コミュニケーションにもよくあります。

神保 ほめられると喜ぶ子どもは、できないと思われていることをなんとも思わず、縦関係に満足しているのだと。

岸見 そうですね。だからそういう子どもは、上司にお世辞を言って気に入られたがるような大人になるかもしれない。

神保 うーん、なるほど。

岸見 そうした子どもは、「ほめて、ほめて」と言います。親が意識的に「ありがとう」や「助かった」というような子どもの貢献に注目する言い方をし始めても「どうしてほめてくれないの」と。そういう子どもには「私はあなたをほめない。なぜなら、ほめることはあなたを家来や子分にすることだから。私はあなたを家来にも子分にもしたくない」とはっきり言うべきだと思います。