名門紙の瓦解
吉田調書報道の根底にあったものとは

 こんにちは鈴木寛です。

 9月11日は、忘れもしない2001年米同時多発テロの期日ですが、日本のメディア史に新たな事件が書き加えられそうです。

 朝日新聞が同日、木村伊量社長が出席しての記者会見をようやく開きました。いわゆる「吉田調書」に関する報道の記事を取り消し、さらに先月、20年越しで誤報だったことを認めた従軍慰安婦問題に関する一連の対応についても謝罪しました。

 政治家時代からたくさんの新聞記者とお付き合いさせてもらいましたが、朝日新聞の記者さんたちは他紙と比べても総じて優秀な方が多いと思っています。これはお世辞ではありません。「優秀」というのは、もともと学生時代から「偏差値」が高いこともさることながら、私に取材に来られる中堅以上の記者さんは、資料や参考文献の読み込み等、取材準備を入念に行い、「よく勉強している」という印象でした。

 時代が「官から民へ」「経団連的なオールドエコノミーからIT業界的なニューエコノミーへ」といった歴史の転換期を意識していますし、「社会改良家」を自認する私としては、新聞という古い業界にあって朝日の記者さんたちにはイノベーティブな気質の方も少なくないと一目置いていました。

 一連の問題の転機になったのは池上彰さんの原稿掲載拒否問題です。これが明らかになると、現場の記者たちはツイッターで次々と「叛旗」を上げ、自社批判を展開しました。強力なトップの存在が際立って、記者たちのソーシャルメディア利用に厳しい制限をかけているとの噂もある、ライバルの某大新聞社をはじめ、旧来型の新聞社文化では考えられない事態です。

 個人が発信する時代の組織ジャーナリズムのあり方が新しい局面に入ったという点で私も大いに興味を持ちました。現場の記者たちから健全な批判が展開され、それがまた可視化されたことが、朝日新聞の今後の救いになるのでしょうが、反面、日本を代表するクオリティーペーパーですらも、ある「呪縛」から逃れられなかったのだと残念な思いをしました。

 その呪縛とは、かのリップマンが言うところのメディアが陥りがちなステレオタイプ型の報道姿勢です。

 取材であるファクトを見付けても、それが自分たちの都合のよいものであればことさらに強調し、あるいは誇張する。そして自社のトークポジション(論調)に沿った「ストーリー」に当てはめようとするわけです。