プラザ合意の裏にあった
「レーガノミクス」

 そもそも各国はなぜ、プラザホテルでこうした為替調整に合意する必要があったのでしょうか? その主人公は、やはりアメリカでした。簡潔に言うならば、アメリカがそれまで高すぎたドルを下げたかったからです。

 しかし、アメリカはニクソン・ショックやスミソニアン協定でドルを大幅に切り下げてきたはずでした。ドルはすでに十分下落していたのではないか、と疑問を抱く人もいるでしょう。確かに、ドル円は1978年に200円を割り込んだこともありました。でも、そこから翌1979年には徐々に水準を戻し、1982年には280円近くにまで戻っていたのです。

 背景には、アメリカの金融政策が影響していました。すなわち、当時のボルカーFRB議長が採用したインフレ対策としての高金利政策が、世界の資金をアメリカ市場に惹きつけて、為替市場でのドル高地合いを呼び戻していたのです。

 当時のレーガン大統領は「強いドルと強いアメリカ」を標榜して、ドル高を歓迎する姿勢を見せていましたが、実体経済においては、輸出の減少と輸入の増加を通じて貿易赤字の拡大が鮮明になっていました。戦後の積極財政や冷戦下での軍事増大など財政赤字のツケを背負って誕生した同政権は、大規模な減税による景気回復を狙いましたが税収は期待されたほどに増加せず、結果的にさらなる赤字拡大を招いたのです。

 「減税が経済成長を促して税収が増える」という説は、アメリカの経済学者ラッファーが、あるレストランでナプキンに描いたと言われる曲線(ラッファー曲線)で知られています。税率はゼロから上昇すれば税収が増えますが、一定水準を越えると減少しはじめます。であれば、アメリカは税率が高過ぎるので、これを引き下げれば税収が増えるだろう、とレーガン政権は目論んだものの、それは実証分析もない空疎な理論に過ぎず、実際には失敗に終わってしまいました。

 1980年に700億ドルとGDP比1%程度だった財政赤字は、1984年には5%超となる2000億ドル台にまで拡大しました。そして貿易収支は1977年に300億ドルを越える赤字となり、1984年には一気に1000億ドルを突破したのです。

 経常収支は1982年に55億ドルの赤字に転落した後、1985年にはGDP比マイナス2.8%に相当する1200億ドルにまで拡大しました。こうして世界最大の債権国だったアメリカは、ついに1986年には対外債務が対外債権を上回る純債務国に転落してしまいました。

 「レーガノミクス」で経済再建を狙った1980年代前半のアメリカは、結果的に経常収支も財政収支も赤字となる「双子の赤字」が構造的に定着し、国内では保護主義の傾向を強めていきました。その本質的な問題はアメリカ企業の競争力低下でしたが、批判の矛先は経常黒字国であるドイツや日本に向けられることになったのです。

 すなわち、当時のアメリカは、「レーガノミクス」なる派手な謳(うた)い文句で強いアメリカをアピールしようとした政策が失敗に終わったため、その結果として生まれた不均衡問題を対円や対マルクなどの為替レート調整で行おうとしたのでした。

 国内問題を対外批判にすり替えるのは政治の常套手段ですが、典型例のひとつが、この時代のアメリカでしょう。その際、輸出品のラッシュで貿易摩擦が目立っていた日本がアメリカ政府の最大の標的になったことは、国際政治力学がもたらした必然でした。