※(上)から続く

 諶氏は、外交文書の、「日本はアメリカ・イギリスと連携してこそ、対ソ交渉を有利に進められたのだ。それとは反対に、日本はイギリス・アメリカと反目し、結果的にソ連の威力に屈してしまった」というくだりを引用して、日本のソ連利用は失敗だったと結論付けた。

 第六に、ソ連を仲介とした戦争終結をやるべきではなかったという点。諶氏は、日本が戦争末期に行ったソ連を仲介とした終戦工作について、「直ちにアメリカ・イギリスに無条件降伏する意思を伝え、それを短期間で行うべきであった。ソ連に戦争終結の仲介を依頼するようなことは、最も愚かな政策である」や「もしもヤルタ宣言発表前にアメリカ・イギリスに降伏していたなら、ソ連の参戦やソ連が対日戦争の成果を山分けするようなことは起きなかっただろう」という文書の記述を紹介している。

 また、諶氏は、日本外務省文書のソ連問題の文書の中で、この頃に関する文書の記述が最も「沈痛」として、日本が一番反省したかったことではないかとみている。

戦略的視点に欠ける
場当たり的な日本外交の問題点

 諶氏の文章は、上に挙げた点の分析によって、当時の日本外交の問題点をはっきりさせたが、その問題は現代的意義を持っているものもある。諶氏の文章からは次のようなメッセージが導き出される。

 第一に、戦略的視点をもって外交政策を立てることである。日本外交が戦略的視点に欠けているという点は、中国の日本問題研究者も指摘している。満州事変から太平洋戦争までの間は、首相がコロコロ変わっており、政治が安定しているとは言い難い情況であった。また、対外政策も往々にして内向きとなって大衆迎合的になり、何が日本にとって何がベストな選択か、戦略的視点から外交を考える状況にはなかった。

 文章は戦争終結に導く方策について、ソ連を仲介とした和平工作にしか触れていなかったが、、日本は対米戦争が始まってからも、ドイツがヨーロッパ戦線で勝利すれば戦争終結に導けるとしていただけで、戦争終結への明確な戦略を示さないまま戦線を拡大し、戦局が悪化していくと、今度は中立条約を結んでいたソ連に仲介を依頼するという場当たり的なものになった。政策立案をするに当たっては、長期的戦略を視野にいれる必要がある。

 第二に、強硬な独自路線をとらず、協調的姿勢をとることが肝要である。ある中国人学者の研究によると、満州事変までの日本は「協調外交」であったが、徐々に既存の世界秩序を打ち破る「自主独立強硬」外交になって、自らが新たな世界秩序を構築しようとしたために、戦略の幅を狭くし、破滅の道を歩んでいったという。

 国内政治に限らず、国際政治においても味方が多いほうが自国にとって有利である。というのは、世界各国の支持が得られなければ、自国の主張は正しいと評価されないからである。