日本における経済小説のパイオニアの1人である作家の横光利一は、株をテーマにした小説『家族会議』の「作者自身の言葉」にこう書いた。「ヨーロッパの知性とは金銭を見詰めてしまった後の知性」であるのに、「日本の知識階級の知性は利息の計算を知らぬ知性である」と。

 しかし、たとえ、「利息の計算を知った知性」でも、日本の経済論の系譜は2つに分かれる。長谷川慶太郎、堺屋太一、竹中平蔵と流れるバブル派と、城山三郎、内橋克人、そして、寺島実郎や私の、いわば理念派にである。前者を虚業派、後者を実業派と言ってもいい。

筑豊で過ごした幼少期が
社会観の原点

 寺島の確かな説得力は、良質の「実業の思想」から生まれる。数字を精神論で膨らませて無謀な戦争に突入した軍部やその便乗者に対して、数字を無視できないし、武力によって国民の生活は保持できないと抵抗した、数少ない実業の思想の持ち主がいた。筆頭が石橋湛山だが、湛山賞を受賞している寺島は、まさにその衣鉢を継ぐリベラリストである。

 寺島と私は最初、宮城県知事だった浅野史郎の仲介で夕食を共にし、それからまもなく、『俳句界』の2007年9月号で対談した。そこで私が「佐高信の甘口でコンニチハ!」という連載対談のホストをやっていたからである。

「普段は国際問題について話をしている寺島さんに俳句の話から切り出すのもなんですが、俳句に興味はおありですか」私がこう問いかけると、寺島は、「それがなんと、僕は俳句に縁があるんですよ」と答え、祖父が羅雨という俳号を持つ俳人で、『北海道新聞』の俳句の選者をしていた、と打ち明けた。父親は炭鉱の労務問題の担当者で、九州から北海道に移ったという。寺島は私より2歳年下で、寺島の兄が私と同い年になる。それで似たような「社会観の原点」を保有しているが、寺島は筑豊の炭鉱でそれにぶつかった。

「僕が物心つく頃は中小の炭鉱はどんどん潰れていき、学校に弁当すら持って来られない子供たちが増えてきた。おふくろは給食運動を一生懸命やっていた。僕の身近な友達にも、仕事を求めて他所に行った父親が帰ってこないので、幼い姉妹のお姉ちゃんの方がその辺でザリガニを取って醤油で煮て妹に食べさせているのを目の当たりにした。忘れられないシーンです。でもね、その時代に個人の力でパンを1個あげたってどうしようもない。人間の情熱だけでは解決し得ない不条理と戦慄くような怒りを感じ取った瞬間というのが筑豊での体験でした」