1998年に経営破綻した日本長期信用銀行。エリート集団として高い評価を受けていた行員たちは、社会から糾弾され、辛酸をなめることとなった。経営破綻から17年、2000年に新生銀行として再出発してから15年。苦悩の日々を潜り抜け、自ら人生を切り開いた長銀OBの激動の十数年に迫る。(経済ジャーナリスト/宮内健)
経営危機に陥った長銀を
「それ見たことか」と思っていた
1998年、長銀が経営危機に陥ったときの心境を当時入行3年目だった渡辺健堂さん(43歳)にたずねると、「正直、それ見たことか、と思っていました」と苦笑いしながら振り返った。
自社の苦境で「それ見たことか」という感想はあまり聞かないが――。
「その前年、山一證券が倒産した年に私にとっては不本意な異動があって、先輩から『お前、なに腐っているんだよ』とたしなめられるくらいへそを曲げていたんです。98年に入って長銀はメディアから激しい批判を受けましたが、自分にひどい仕打ちをした長銀が叩かれるという構造なので心境としては『それ見たことか』と。本当にひどい話で、最低な人間でした」
社歴がまったく異なるとはいえ、前回取り上げた石橋哲さん(50歳、破綻当時34歳)が責任の一端を感じていたのとは対照的な受け止め方である。
だが、自行の経営破綻について「不健全な消化の仕方をしていた」と反省の弁を述べる渡辺さんはいま、経営者や経営幹部のサーチと紹介を手がけるエグゼクティブ・ボード副社長と、弁護士のヘッドハンティングや法科大学院生の就職支援を行うジュリスティックス社長を兼務する立場にある。
20代のときに不本意な異動でへそを曲げていた若手社員が、長銀の経営破綻以降に起こったさまざまな出来事のなかで成長し、いまや他者のキャリアを支援する会社の経営者になったのである。
エグゼクティブ・ボードには創業社長、ジュリスティックスには創業会長がおり、渡辺さんは彼らが掲げるビジョンを実現するサポート役という、いわば創業者の右腕の役割を担っている。現在の形で仕事をするようになるまで、大きな転機となった出来事が3つあったと渡辺さんはいう。