浪華商業時代も差別はつきまとったが、東映フライヤーズから巨人に移って、はじめて故郷の広島でプレーをした1976年4月16日夜のそれも苛烈だった。張本がこう振り返る。

「練習のときから野次がひどかったんです。“チョーセン人帰れ!”“強制送還させるぞ!”“キムチ!”“ニンニク!”なんて、あまりにもひどい野次に、おふくろは卒倒しそうになったんです。聞くに堪えなくて、兄貴は野次っている連中に頼んだそうです。“やめてくれ、あんまりひどいじゃないか”と。連中、野球トトカルチョをやっていたそうで、兄貴に“金くれるんやったら、野次るのやめたってもええで”と言うたんやそうです」

 賭けをやっていて、どうでも広島カープに勝ってもらわなければならなかったのだろう。

 そのころ、帰化問題も起こった。張本と同じように在日二世でありながら日本に帰化した有名選手と張本は衝突し、いろいろ足も引っ張られて、張本も帰化を考える。母に相談すると、母は悲しそうな顔をして黙ったままだった。それで拒絶の強さを知って、張本も帰化せずを貫こうと決意する。

「帰化した人に対して、帰化しない僕らは逆にあたたかい眼で見てやらねばならないと思うんですよ。帰化したい人は、自分の出身を隠したがっているわけで、やはり、僕たちは、隠したい人の隠したいことを、隠してやらねばならない。帰化せざるを得ない、その人の立場もあるのだから。帰化したからといってすぐに“裏切り者”というのは、はっきり言って次元が低いと思いますよ。僕の気持ちはいまはっきりしています。いま僕が帰化しないのは、その必要がないからです。必要なときには帰化するかもしれない。自分の子どもには、僕が子どもだったときのような思いを味あわせたくない、これは僕の本当の気持ちですよ」

 1976年春、韓国の社会団体「新しい芽の会」は「立派な母」に張本の母、朴順分を選んだ。

「日本で34年前に夫と死別しながら、4人の子供を立派に育て、特に韓国人としての誇りをもつようにし、また、張本選手の日本への帰化を勧めるあらゆる誘惑を退けた」がその理由である。