弁論部で磨いた説得力
滋賀県立八幡商業学校に通いはじめた塚本幸一は、いまの高校生同様、精一杯クラブ活動を楽しもうと思っていた。
最初入ったのはテニス部。当時の日本は世界的名選手を多数輩出していたことから、テニス部は人気のクラブだった。ところがしばらくして退部している。
「テニスみたいな激しい運動したら体に触りますがな」
と信(のぶ)に反対されたためだ。
気を取り直して音楽部に入りトランペットを吹きはじめたが、うまく吹けず頬が痛くなるばかり。そのうち耳鳴りまでしてきたのを信がまた心配し始め、これも退部。
後年、祇園の芸妓たちから“男の中の男”と呼ばれる塚本幸一も、この頃はマザコンの気さえある美少年にすぎなかった。
そして3年になってから入ったのが弁論部である。
弁論部デビューはほろにがいものだった。演壇に立ったのは中之島の大阪市中央公会堂で行われた此花商業学校(現在の大阪偕星学園高等学校)主催の弁論大会。当時の関西では最大規模の会場である。おかげですっかりあがってしまい、ただ舞台と演壇が大きかったことだけしか記憶に残っていない。
だが徐々に舞台度胸もついてきて、次第に好成績をおさめはじめる。
この頃の彼の写真が残されているが、高校球児のように頭を短く刈っていて、精悍さがきわだっている。壇上でこの姿がさぞや映えたに違いない。後年のような鋭い眼光はまだなく、どちらかと言えば甘いマスクであった。
京都新聞会館で大会があった時には、見事優勝して優勝カップと花束を獲得している。
信が応援に来てくれていたが、こちらはこちらで相変わらず息子のことが心配でたまらない。結局、何を話しているかまったく耳に入ってこなかったという。だが車からはみ出そうな大きな花束を抱え、家まで送ってきてもらった姿は我が子ながら誇らしかった。
弁論部に入ったことは後年大いに役立った。
落ち着いた語り口と絶妙な間合い、演壇から会場に向けての悠然とした視線の送り方など、今に残るビデオを見ても彼の挨拶は実に堂々たるものである。それはこの頃の研鑽の賜物だろう。
妹の富佐子も、名門である京都府立第二高等女学校(現在の京都府立朱雀高校)に入学。頼もしく育っていた。
お茶を習いに二条通高倉に住んでいる先生のところに通っていた富佐子は、ある日、その途中の中京区二条東洞院東入ルに新築の家を見つける。仙台の塚本商店に勤めていた番頭の1人が嘉納屋商店を手伝うようになって北野天満宮のそばの家は手狭になり、粂次郎は繊維問屋の集まっている中京区に新しい家を探していたが、なかなかいい物件がなくて困っていたのだ。
ちょうど学校の休みで京都に帰ってきていた幸一に相談し、仲良く2人で下見にでかけた。間口二間半、奥行き十八間の京都の町屋特有のうなぎの寝床のような家である。壁は荒壁のままで、ふすまも棚もついていなかったが、幸一もすっかり気に入ってしまった。
ただ富佐子が驚いたのは、幸一がその場で大家と家賃の交渉をはじめたことだ。今の平野鳥居前町の家でも家賃は27円する。それをこの家は49円というのだから、なんとかしたいと思ったのだ。
「お家賃は毎月25日の朝に必ず届けるとお約束しますから、もう少しまけていただけませんか?」
見事な交渉で結局、45円に負けてもらった。粂次郎もひと目で気に入り、塚本家はここに越すこととなる。昭和11年(1936年)のことであった。