豊臣秀吉の天下のあと、その王座を手に入れたのは徳川家康だった。秀吉が百姓(平民)の生まれなら、家康は弱小城主の息子。今川と織田、2つの強力な集団に挟まれていた松平家の青年が、なぜ天下を獲るほどの大物になれたのか?好評発売中の『戦略は歴史から学べ』の著者が、新たに書き下ろす「番外編」シリーズ第6回。

今川と織田に挟まれた弱小勢力の松平氏

 日本の三英傑として知られる、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。信長は1534年、秀吉は1537年、家康は1543年の生まれです。彼らの性格を比較する有名な言葉に、つぎのようなものがあります。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」(織田信長)
「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」(豊臣秀吉)
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」(徳川家康)

 家康を「待つことができる英雄」とたとえているのは、彼が最後に生まれ、二人の英雄の業績を受け継ぐ形で天下人になったことも理由でしょう。

 家康は、三河(現在の愛知県岡崎市周辺)の松平家に生まれます。しかし当時は、駿河の今川家と、尾張の織田家の勢力争いの真ん中に位置しており、常に不安定な立場でした。家康の父である広忠は、同族の松平信定に岡崎城を奪われており、岡崎城に戻るために今川義元を頼ったことで、今川には逆らうことができませんでした。

「広忠の叔父にあたる三木家の松平信孝が老臣衆に排除され、やむなく織田信秀に通じたため追放されてしまった。ついで、同年七月に於大の父水野忠政が死去し、跡を継いだ子息の信元が織田方に走ったため、広忠は翌天文十三年に於大を離別した」(於大は、広忠の妻で家康の母。書籍『定本徳川家康』より)

 家康の生まれた松平家が、今川と織田の勢力争いの境界線にあったことで、両家で激しい綱引きが行なわれたことが伺えます。家康の母は、その父方が織田勢力と通じたことで離縁されてしまい、家康は3歳の時に実母と引き離される悲運を味わいます。

 その後、松平家は織田勢力と戦うため、今川に援軍を求めますが、そのときに人質として家康を差し出すことになります。しかし、義母方の父の裏切りにより、織田側に連れ去られてしまい、後年、織田の人質と交換することで今川の元に戻るなど、弱小勢力のもとに生まれた故の、波瀾万丈の幼少期を体験します。

今川勢として、初陣を飾った若き日の家康

 家康(当時は松平元康)は、その15歳の初陣を今川配下で戦っています。今川側から寝返って、織田側についた鈴木重辰を討伐する命令を受けたのです。1558年の初陣では、今川の庇護・加勢の元で戦い勝利を収めた家康ですが、そのわずか2年後には劇的な運命の転換が待ち受けていました。

 1560年、桶狭間で今川義元が織田信長の奇襲により討ち死にしたのです。今川義元が死んだことで、岡崎城を支配していた今川勢も城を捨てて、駿河に去ります。そのため、名古屋から岡崎近くに撤退してきた家康は、10年半ぶりに岡崎城に入城することになります。

 密かに独立を目指していた松平の家臣団と家康は、今川勢が退去した西三河地方をすばやく攻略し、支配下に収めていきます。今川の支配勢力が逃げたことで、空白地域に近いエリアを得て、家康と家臣団は自主独立の大きなきっかけを得たのです。

 2年後の1562年には今川家と断絶し、家康は織田信長と同盟を結びます。この同盟は、東三河を攻略したい家康と、美濃の斉藤氏へ攻勢を強めたい信長の思惑が一致したためと言われていますが、これにより家康の今川勢力への攻撃はさらに激しさを増し、領土拡大にも拍車がかかることになりました。