戦国時代の最強武将、上杉謙信。しかし、「天下」への階段を駆け上がったのは、織田信長のほうでした。その差はどこにあったのでしょうか?世界史5000年の歴史から生まれた「15の成功法則」を記した『最強の成功哲学書 世界史』から見ていきましょう。

戦国の最強武将、上杉謙信。

 上杉謙信。誰もが知る戦国大名の彼は、15歳で初陣を果たしてから49歳で亡くなるまで、その生涯戦績は71戦中、61勝2敗8分。その勝率たるや、なんと97%!

 この数字は、数多の戦国大名の中でもナンバーワンで、当時、京でも話題になるほどだったといいます。

 晩年、飛ぶ鳥を落とす勢いで北陸方面に進出してきた織田軍と手取川で合戦していますが、このとき上杉軍2万、織田軍4万という圧倒的兵力差にありながら、これを一蹴。戦後、謙信は家臣にこう漏らしたといいます。

「“魔王”などというから、如何ほどのものかと思ったら。存外たいしたことはなかったのぉ。あれしきの者で“天下布武”とは、わしなら天下統一も容易いな」

軍神謙信の迷走とは?

「軍神」と呼ばれるほどの圧倒的強さを誇った謙信。天下に王手をかけた織田軍をあっさりと破り、「天下統一も容易い」とうそぶいた謙信。その彼が天下を獲ることはついにありませんでした。逆に、手取川の戦いで手痛い敗北を喫した信長のほうが着実に「天下」への階段を昇っていくことになります。この差はいったいどこにあるのでしょうか。

“無敵の上杉謙信が、天下を獲れなかった理由”<br />歴史に学ぶ「勝つための戦略」無敵の戦国武将、上杉謙信はなぜ天下を獲れなかったのか? 「戦略」という観点からその謎をひも解きます。

 そこに重大な人生訓が隠されていそうです。確かに謙信は強い。しかしながら、その強さを恃たのみに、なんの展望もなく、ただただ目の前の戦いに勝利を重ねるのみ。

彼に決定的に欠けていたもの。それは、才でもなく、運でもなく、彼の才を正しい方向へ導いてくれる優れた軍師の存在でした。偉大な業績を挙げるものの側には、必ずと言っていいほど、その才を導く助言者がいるものです。

「一般方向」を見失うべからず

 軍事用語に「一般方向」というものがあります。これは、細かい経路は軽視し、全体的方向性だけを重視する考え方。

 たとえば、戦いに敗れた軍が自陣に戻るべく山中をさまよっていたとします。どこを進んでいるのかもわからないような状態でしたが、突然視界の開けた小高いところに出て、森の向こうに自陣が見えました。。

 とはいえ、自陣までの道はうっそうとした木々に隠れて見えない。どこをどう進めばいいかわからない中で、疲弊の激しい軍がこれ以上隊列を組んで進めば全滅するかもしれない。こうしたときは、ばらばらで各自に行動したほうが生存確率は高いものです。

 そこで、もし大将が、「一般方向、自陣!」と叫べば、それは「どんな道をたどってもよいから、各自、あそこに見える自陣に向かえ!」ということです。これは「戦略と戦術」に置き換えて考えることもできます。

謙信は、一戦一戦には軍神の如き強さを誇りましたが、肝心の「一般方向(戦略)」にはまったく無頓着でした。謙信とて戦国大名の端くれ、いずれは上洛して天下に号令することが目標だったはずですが、彼の戦歴を調べてみるとまったく「一般方向」が見えてきません。

 越後の国(新潟)を拠点として、国内で5戦。
 北条の支配する小田原 (神奈川) 方面( 南東 )に進撃すること43戦。
 武田が進出してきた信濃 (長野) 方面( 南 )に進撃すること6戦。
 織田が進出してきた北陸 (富山) 方面( 西 )に進撃すること17戦。

 もう見事に向いている方向がてんでバラバラです。これは喩えるなら、水上において、ただ闇雲に手足をばたばたさせているのと同じです。

 それでは水柱が立つだけでちっとも前(天下)に進みません。進まないどころか、あっという間に体力(寿命)が尽き、沈んでいきます。きちんとした泳法(戦略)を学び、これに基づいて手足(軍)を動かせば、着実に岸(天下統一)に向かって泳ぐことができたでしょうに。一方、信長はどうだったのでしょうか?