【第25回】 2009年11月10日
「株を守る」
株(くいぜ)を守る、あるいは守株(しゅしゅ)という成句がある。これは、古い習慣や成功体験にとらわれてしまい、新しいことに対応する能力のないさまを指す。この成句の語源は中国の古典『韓非子』にある、次のたとえ話である。
昔、宋の国にいたある農夫が畑を耕しているとき、向こうのほうからウサギが猛然と走ってきて、畑の中にある木の切り株に頭をぶつけて死んでしまった。労せず貴重なウサギを獲ることができたので彼はたいそう喜んだ。それからは走ってくるウサギを見逃すまいと、畑を耕すことをやめてその木の切り株を見守ることに専念した。しかしウサギは二度とは獲れず、彼は国中の笑いものになった。
スイッチング・コスト
新しいことに適宜対応することの重要性は理解していても、過去の成功体験を捨て去ってまったく新しい方法を試すということは、なかなか難しいものである。そのように過去にこだわるのは、人に備わる煩悩の一つとしてあきらめるのはたやすいが、それではいよいよ発展に乏しい。
成功体験にしがみつく行動を、合理的な意思決定の立場から説明することは十分可能である。成功例を捨てて新しいことを試すには、慣れ親しんだ自分の行動を変えるための費用、すなわち「スイッチング・コスト」がかかる。すなわち、そのスイッチング・コストよりも、新しいことを試すことから期待される便益が大きければ古きを捨てるべきであろうが、逆に便益のほうが小さければ現状を維持するほうに経済合理性がある。そのため、スイッチング・コストが非常に高いような状態にいれば、第三者から見れば過去の成功体験に縛られているようでも、先例にならい行動を変えないほうが合理的である可能性が高い。
スイッチング・コストによって行動が変えられなくなってしまう状態に陥ることを、経済学では「ロック・イン」されると言う。ロック・インとは囚われて動きがとれなくなるという意味であるが、これは強制されて動きが取れなくなっているのではなく、自由意思のもとで合理的な利害判断の結果として発生するというところが要点である。したがって、ロック・インされること自体が悪いということではない。
しばらく使わなければその効果が実感できないような習慣性のある物や、使い続けているうちに次第に効果が増してくるような物の場合、それを一度使い始めると逃れるのが難しい。人は使いなじんだ装飾具や化粧品をなかなか変えたがらないものだし、携帯電話機を買い替えても電話番号はそのままであってほしいと思うものである。これは、過去へのこだわりによって判断力が麻痺したからではない。変えるとなると、新しいものをしばらく試さなければならず、しかも試した結果が芳しくないということも十分にあり得るわけだが、そうなると試した分が無駄な損害になる。すなわち、他の新しいものに乗り換えるためのスイッチング・コストが、乗り換えで期待される便益より大きいことを知っているから、そのままにしたいと思うのである。
実際、スイッチング・コストが相対的に下がるような事件があると私たちは進んで新しいものを試す。大幅に性能が向上した新製品が発売されれば、慣れているものがあってもやはり触手を伸ばすものであるし、よからぬ電話が頻繁にかかってきたり、いらぬメールで受信箱があふれたりするようになると、電話番号を変えたいと思うものである。
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著者プロフィール
- 梶井厚志
(京都大学経済研究所教授)
1963年広島県生まれ。86年一橋大学経済学部卒業、91年ハーバード大学Ph.D.(経済学博士号)取得。専攻は経済理論、特に情報の経済学、一般均衡理論、ゲーム理論。ペンシルバニア大学経済学部助教授、筑波大学社会工学系助教授、大阪大学社会経済研究所教授を経て、2003年より現職。 著書に『ミクロ経済学:戦略的アプローチ』『戦略的思考の技術』『故事成語でわかる経済学のキーワード』などがある。梶井厚志のホームページ
この連載について
身近な言葉の中にも戦略的思考の可能性が潜んでいる。本連載では、身近な言葉や格言・昔話から、そこに潜む経済学的なアイディアや戦略的な含意を探る。
なぜ私たちは「どうも」「お疲れさま」「よろしくお願いします」を、これほど使ってしまうのか?身近にあふれる妙に気になる日本語たち。そこには、必ず何らかの戦略が込められている!気鋭の経済学者がゲーム理論を駆使して読み解く、目からウロコのエコノミック・エッセイ。
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