河添 健(かわぞえ・たけし)
慶應義塾大学名誉教授・理学博士
1954年東京生まれ。70年慶應義塾普通部、73年慶應義塾高校、77年慶應義塾大学工学部数理工学科を卒業、82年同大学院工学研究科数理工学専攻博士課程単位取得退学。慶應義塾大学総合政策学部教授、慶應義塾湘南藤沢中等部・高等部長(校長)、総合政策学部長を歴任。慶應義塾を定年退職後、2020年から東京女子学園中学校・高等学校(現・芝国際)の校長を3年間務めた。現在、神田外語大学教育イノベーション研究センター客員教授、放送大学客員教授なども。著書に、『大学で学ぶ数学』(慶應義塾大学出版局)、『数理と社会』(数学書房)、共著に『楽しもう!数学を―高校数学への再挑戦』(日本評論社)、『信じることから始まる探究活動のすすめ』(大修館書店)など。 Photo by Kuniko Hirano
「学び」を巡る2つの軸とは何か
――最新の共著書『信じることから始まる探究活動のすすめ』の「探究のすすめ」に込めた思いとは何でしょう。
河添 一番伝えたかったのは「学びって何か」ということです。「探究学習」が注目される中で、それがいま問われています。
中高生も大学生も、「学び」というのは授業を受けて単位を取って卒業していくことだと思っています。確かに学校教育はみなさんの学びをサポートし、豊富な知識を与えるものです。しかし、学びとは、生まれてから死ぬまでつながる営みです。スポーツや芸術などいろいろなものが含まれます。そういうものをもっと大切にすることが「探究」の本来の目的だと思います。
ところが現実には、探究学習の登場によって教育現場がむちゃくちゃになっています。せっかく2022年から高校で本格的に探究学習が始まったのに、いままでの学びと同じものになってしまうのではもったいないと思います。
――いままでの学びが何であったのか。人工知能(AI)が登場し、「知識爆発」とも言われる状況下で、いままでのような知識詰め込みで追いつけるのか。追いつく必要もないし、追いつけないというのが現実だと思います。そもそも知識は使うために蓄えていたものが、ため込むものになってしまった。
河添 「知識」と「探究」が2つの学びの軸としてあります。江戸時代の寺子屋や藩校、私塾に代わる学校が明治になって新たに始まったときに、何を勉強しようかとなった。一つは、帝国大を主として西洋人と同じ博学を身に付けた博士を創ろうとなったことから始まる知識教育です。これに対して、慶應義塾の福澤諭吉は実学こそが学びだと言っています。知識を詰め込むよりも物の道理を見極めることが大事ということで、それはまさに「探究」のことでしょう。
この二軸がいままでずっと続いて来ているというのが私の考えです。国を治めるにあたり、知識を修める東京大学法学部の卒業生のエリートが官僚、政治、法曹を主導してきました。しかし、昨今日本の国力が著しく弱体化しています。いまようやく、知識を詰め込むだけでは世界に通用しないことがはっきりと分かってきました。
そこで、もう一つの軸である実学――道理を知り社会を生きる力――をきちんとやりましょう、というのが文部科学省の考え方であり、「探究」の導入となります。流れはとてもいい方向になっています。
しかし教育の現場では、いままで述べてきた歴史的な経緯とか生きる力を分からないまま、従来の知識教育の流れの中に「探究」も入れてしまい、知識偏重の受験勉強をしてきた生徒が総合型選抜を受けるために「探究」をなんとかしようと思うから、おかしくなってしまうわけです。「総合的な学習(探究)の時間」の趣旨をきちんと理解しないといけません。
――これまでの国立大中心の大学入試は、知識や情報を詰め込んで、いかに早く正解にたどり着けるかという問題処理能力が問われていたので知識が重要でした。ところが、「探究」の意義や背景を考えていくと、それがもはや単に正解を求める問題処理では通用しなくなってきている。
河添 知識教育を重視し、博士や官僚になる人材を育成することは、確かに国を強くするための一つの方策です。科挙の名残のある中国や韓国にもそういう仕組みがあります。しかし、多くの国ではもっと勉強の本質にきちんと取り組もうとしています。PISA(OECD生徒の学習到達度調査)で常に上位のシンガポールは、以前は知識を詰め込むことに重点を置いていましたが、いまは探究的な学びに大きくかじを切っています。
日本でも文部科学省が「総合的な学習(探究)の時間」をやりましょうとなりました。しかし教育現場がついてこれない。それは先生方が受験指導などに翻弄され、新しいことをする余裕がなくなっている。そこでいままで行っている受験指導の一部として「探究」を取り組むのならば簡単だし、生徒の受けもいい。しかし、「探究」は本来全く違う軸なので受験勉強とは合わないものです。