慶應義塾大学SFCで試みたこと
――慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)ができたのが1990年のこと。総合政策学部と環境情報学部で立ち上がり、2001年に看護医療学部が加わって、今年で35年目となります。AO入試(総合型選抜)も先駆的に導入しました。
河添 あの頃は、慶應義塾も含めて、どこの大学も国際的な標準と比べると、どうしようもない状況にありました。私が学生の頃は、多くの学生は雀荘に行って麻雀をしているのが大学生活だった。大学を卒業しても英語もしゃべれず駅前留学。これでは国際化する時代には生き残れない。これはおかしい。慶應義塾の中でも改革しようという動きが起きました。
しかしSFCが開校したとき、「あれは慶應ではない」「あれは専門学校だ」とか三田キャンパスの人に公然と批判されました。
それが30年余りたって、多くの卒業生が育っていった。いま一番うれしいのは、卒業生たちが自分の子どもをSFCに入学させるようになったことです。ここでの教育は間違っていなかった。
――それは教育機関としてとても大切なことで、自分がいい思いをしたから、子どもにも、というのが一番分かりやすい成果です。
河添 これから先は少し不安もありますが、この30年を振り返ると、シラバス、授業評価、AO入試(総合型選抜)、プロジェクトベースの教育などなどSFCで行ったいろいろなことが教育界の常識になってきました。
――私もSFCの環境情報学部を創設した相磯秀夫さんが学長を務めていた東京工科大で一緒に仕事をしたことがあるので、SFCの考え方が非常によく分かります。
河添 SFCがなぜ開設当初にたたかれたのか。その当時は慶應義塾ですら偏差値の高い難関私学の位置付けに甘えていたのだと思います。そして、それとは違う流れで教育をやりますと言ったからです。知識のところは後付けでいいから、まずはやりたいことを重要視する。学びのモチベーションを評価する。
そのためには一般入試だけをやっていても仕方ないので、AO入試をやることにする。そして必修科目をほぼなくし、各自が自分の時間割を作る。自由で何をやってもいい。そしてそれを全教員がサポートする。ダイバシティーの塊のようなキャンパスが生まれた。
――大学入学後すぐにやりたいことにアプローチできるように、1年生からプロジェクトにも参加できるわけですし。
河添 その代わり、足りない知識は自分で身に付ける。当然、知識が足りなければ留年やドロップアウトする学生も出ますが、そこは自己責任とはっきりと割り切る。
――入学段階で多少知識の欠落があっても、自分の興味関心で必要となれば、自分からそうした知識を取りに行きます。こうした学びは、明らかに「探究」的です。
河添 「探究」と「総合型選抜」は相性がいいので、良い探究をやって総合型選抜を受ける。ところが、多くの大学の総合型選抜は点であって線ではない。入試が終わったら、一般選抜の学生と同じ普通のカリキュラム、従来の知識教育になる。私は、これは詐欺なのではと思っています(笑)。
総合型選抜で入ったのなら、それが続けられるようなカリキュラムであってほしい。評価される探究は入試だけのものなのか。受験生と進路指導の先生もそこをきちんと見極めてほしい。探究の学びは生涯にわたるものです。