父も弟も同じ中高に進学。被告を追い詰めた環境
被告の実家は祖父が創業し、父と母が跡を継いだ薬局を営んでいた。長男として、その跡継ぎの薬剤師となることを期待され、弟と共に、父の母校である東海中学校・東海高等学校への進学を目指すことになる。県立旭丘高校を筆頭とする公立王国の名古屋で、中学受験をするという選択は、決してメジャーなものではない。
公判では、被告と弟に勉強させるため、被告の父が包丁を机に突き刺して脅したことがあるといった過去が明かされている。
被告は親の期待に応えて東海中に入学し、小学生のときからやりたかった野球部に入る。ところが定期試験の成績が悪いことを理由に、退部させられてしまった。
当時の東海は1学年500人ほどの大規模校で、同期であってもお互いのことをよく知っているというわけでもない。被告は昭和61(1986)年に高校を卒業しているが、大学には進学しなかった。超進学校である東海では極めて希な例であるが、同期やその前後のOBに尋ねても、彼のことを記憶している人はいなかった。同窓会名簿でも、行方不明の欄に名前が並んでいるようだ。同期の120人がそこに名を連ねていたが、不本意な進学先だったりした場合には、同窓会からも遠ざかるのだろう。
卒業後、就職した被告は実家を出る。だが、結婚後に親子3人で仲良く暮らした駅前のマンションは、被告の生まれ育った地元である。購入に際しては実家の援助もあったという。卒業から30年後、事件が起きた時点でも、実家の呪縛からは逃れられなかったのかもしれない。
被告の実家があり、犯行時のマンションがあるのは名古屋市北区の地下鉄駅に近い街である。市営住宅も多い区内は、東京23区でいえば足立区に似ているかもしれない。東海がある東区と接しているとはいえ、中学受験が盛んなエリアではない。被害者が通っていた児童数300人ほどの小学校も同様だ。成績上位で足も速いという人気者の条件を備えていた被害者にとって、学校と自宅の落差は大きかっただろう。
4年生から塾に通い、夜も遅くまで受験勉強しながら、反抗的な態度と父に思われると暴力を振るわれた。5年生の冬になるとカッターナイフで脅されるようになり、6年生になってからはナイフ、包丁とエスカレートしていった。犯行が起きた8月には、その包丁で実際に身体を傷つけられる危険水準に達していた。
「中学受験の経験もないやつに何が分かる」といった罵声も浴びせられたという元妻は、元夫の異変に気づき、息子に「一緒に別居しよう」と持ちかけている。しかし、息子は両親と一緒がいいとそれを拒んだ。父の期待に応えたいという健気さが、結果として最悪の事態を招いてしまった。