かつて校長を務めた上矢部高校では、学習環境整備の一環で「トイレアート」を実施した 写真提供:神奈川県立上矢部高等学校

母校に求められたこと

――美術科の先生で、県立高校の校長にもなられたというのはとても珍しいご経歴ですね。

石川 卒業後は洋画家になりたかったのですが、絵画教室を主宰したり、親戚の建築事務所でデザイナーとして働いたりしました。仕事は面白かったのですが、コンピューターもない手描きの時代で、徹夜続きのハードな状況の上、原価を考えながらおカネを稼ぐことに疲れてしまいました。

 30代になって、教員免許を持っていたことを思い出し、非常勤講師に。翌年、当時の採用年齢制限ギリギリで教員採用試験に受かり、では教員になろうとその場で決めました。

 神奈川でも県立高校の退学者が増え、高校改革が始まり、総合学科などもできた頃です。自分自身“イロモノ”の跳ねっ返りの中途採用者だと思っていたのに、「教頭やらない?」と当時の校長から言われてびっくりしました。それだけ県も、改革に本気だったのでしょうね。

――それで管理職になったわけですね。

石川 美術陶芸コースのある上矢部高校(横浜市戸塚区)で校長になりました。3年たったところで、県に「ここにずっといたい」と言いに行ったら、「校長が進退希望を言うな」と叱られましたが、「まぁいいか、石川さん楽しそうだし、学校も元気だし」と6年間務めて定年を迎えました。

 生徒もかわいいし、楽しく過ごすことができました。生徒にも言いましたが、私は高校も大学も第1志望のところには行けませんでした。それでも、進んだ先でいいところを見つけ楽しんでいこうという気持ちが常にあったから、生徒にも楽しそうに見えたようです。

 ただ、上意下達が厳しかった県立校でそのまま再任用されるより、違うことをやりたいと考えるようになり、ちょうどその頃、女子美大の同窓会から講演に呼ばれまして。

――久しぶりの母校ですね。

石川 県立校で年20万円のペンキ代を確保して、トイレアートを行うことで学校が良くなった経験とかをお話ししましたら、特別招聘教授というポストを用意していただくことに。週3日、教職系の授業や学校説明会で高校を回る仕事などで、大学に来るようになりました。

――学校法人の理事会は、そうそうたる顔ぶれですよね。

石川 ノーベル生理学・医学賞受賞者である名誉理事長の大村智先生は、郷里に美術館を創り寄贈されています。福下雄二理事長は内閣府出身の元官僚で、とても人脈が豊富。外部理事には美術に関心のある、企業トップクラスの方を招いています。

 現在の大学の学長は卒業生ですが、その前は東大で建築学を学んだ男性の方でした。付属校の校長もOGというわけではなく、さまざまでした。

――昔の校長先生は、男性だった気がします。

石川 当時は大学の教授が付属校長を兼任していて、朝9時半から17時まで週3回いらしてました。後任のお話をいただいたとき、私は名誉校長でいいのかなと最初は思いました。自宅は藤沢で、朝7時半に登校するには、湘南新宿ラインの始発でなければ無理ですから。私は週5日、朝は少しゆっくりで勤務させていただいております。

 理事長から私へのミッションは、60%台後半だった女子美術大への内部進学率を70%で維持してほしいということくらいでした。「他には何も問題はない」と言われてきました。