教師になろうと選んだのが音楽科

青木 戦前、父は中央大学を出てから逓信省に務めていたのですが、長男だから戻ってこいということで、役所を辞めて青梅の奥にあった実家に戻りました。戦後、横田や立川に米軍が進駐して来ました。父は英語が得意でした。自分でできる仕事をということで、国立の方に引っ越して、給料のいい米軍関連で働くようになりました。

[聞き手] 森上展安(もりがみ・のぶやす) 森上教育研究所代表。1953年岡山生まれ。早稲田大学法学部卒。学習塾「ぶQ」の塾長を経て、88年森上教育研究所を設立。40年にわたり中学受験を見つめてきた第一人者。父母向けセミナー「わが子が伸びる親の『技』研究会」を主宰している。

――当時から国立は文教都市だったのですか。中学受験に特化した私立の国立(くにたち)学園小学校もあります。

青木 文教都市ということでしたが、周りは林だらけでした。国立富士見台団地(1965年竣工)のところも畑でした。しかし、周辺の人口はこれから確実に増えて行くという読みはありました。

――先見の明がある(笑)。私が中野で塾を経営していた頃、国立でやたら実績を上げている塾があって、生徒の取り合いみたいになりましたが、その塾が青木先生のご実家だったと後で知りました。

青木 浅川進学塾(後の進学舎)を始めた父が亡くなり、父の弟が3~4年やった後、母親が教員を辞めて継ぎました。兄も教員でしたが、その後は兄の奥さんも一緒に塾を経営していました。

――その後、塾はenaに譲り渡されましたね。ところで青木先生は、公立中学校の音楽科の教師をやっていらしたそうですが。

青木 高校1年の時の担任に「教員になるのだったら何科がいいか」と相談しました。技術科はまだなかったので、「新しくできた技術科がいいが、次は音楽科がいい」と言うので、理由を尋ねたましたら、「結婚すると辞めてしまう女の先生が多いので毎年募集があるし、男の先生は便利だから」と言われました。

 僕がやってもいいなと思っていた教科が体育と音楽、社会と数学でした。その中で、音楽が一番教員に採用されやすいというので決めました。社会科は当時も50~60倍で、とても受かりませんし。

――一番成功確率の高いところを選ばれた。音大でなくてもいいのですね。東京学芸大学のご出身ですね。

青木 美術科でしたら、東京教育大(現・筑波大)に美学の専攻がありました。ところが、音楽科はありませんでした。当時の教育大は一期校でしたので、心理学で出願しましたが、入試当日に40℃度近い熱を出してしまいました。そこで、音楽科もあって実家からも近い学芸大にしました。

――どのくらい教師をやっていたのですか。

青木 昭島市と多摩市の2つの公立中学校で21年間勤務しました。戦前から教員をやっていた母が、「20年働くと恩給が出る」と言うので20年はやろうと思っていました。実際は違ったのですが(笑)。