40代半ばで理想の学校づくりに
――辞められた時は40代半ばですね。きっかけは何だったのですか。
青木 教員になって2~3年で、公立校の限界を感じていました。いまのようにいろいろな形ができていれば少しは違っていたかも知れませんが、多様性がなかった。成績の上の子は授業がつまらないし、下の子はついていけない。公立校はどうしても平均に合わせます。その時に思ったのは、クラスは1つでも授業は別々にしないと、この仕組みは無理だなあと。
――昔は1クラス50人もいましたね。どんなに先生方が頑張っても限界があります。公立中学校の教員を辞められてからはどうされていましたか。
青木 学校を創る準備をしながら、家業の学習塾で3年間、マネジメントをしていました。
40歳を過ぎた頃から、どうやったら自分の理想の学校をつくれるかの研究をしていました。最初の学校は東京都内につくりたかったので、いくつか候補地も挙げましたが、都の担当者から「ベビーブームの後、私学の新設は基本的に認めない」と言われました。これは既存の学校を引き継ぐしかないということで、いくつかの学校を見て回りました。
――結構、引き継げそうな学校もあったわけですね。開智の前身の学校との出合いはどのようなものでしたか。
青木 いろいろな学校の理事会にお話を聞きに行った中の一つで、当時は埼玉第一高等学校といいました。第1次ベビーブームの時に設立したものの、学校経営はもうかるものではありません。教育はまずくなかったものの、経営がうまくいっていない状況でした。
――当時、子どもが増えるからと、どんどん受け入れている学校が多かったですね。その後、レベルが高くなって生徒が集まらなくなるパターンも多かった。
青木 県の教育関係者のご紹介で、この学校の理事会に入りました。
――資金繰りが大変でしたでしょうから、その面でも貢献を求められたりはしなかったのですか。
青木 その頃、母が亡くなりました。無税になるということで、遺産の半分以上を学校に寄付しています。
――そうでしたか。
>>(2)に続く