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人生初の転機となった「こどもちゃれんじ」(福武書店/現・ベネッセコーポレーション)の創刊。ネイチャーアーティスト界の大御所である熊田千佳慕さんとの出会いが決め手に  画像提供:明星中学校・高等学校

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非認知能力を育む「こどもちゃれんじ」

――「こどもちゃれんじ」は絵本の要素が強いですが、作家を探すのは大変だったのでは。

水野 創刊号はこの人しかいないとお願いしたのが、当時すでに76歳だった熊田千佳慕(ちかぼ)さんでした。全然計算していませんでしたが、「創刊号は熊田さんです」と執筆依頼に行くと、皆さん快諾してくれました。『冒険図鑑』(小学館)などネイチャーアート界の第一人者として知られる松岡達英さんもその一人。熊田さんに憧れてネイチャーアーティストになったからです。

 ただ、熊田さんは浮世離れした人なので、締め切りとか一切考えていません。5ページの内、1ページ目が入ったのが色校正の日で、最後の1枚は校了の日でした。

――結果的にすべてがよい方向に進みましたね。

 1988年創刊の「こどもちゃれんじ」は、非認知能力の育成をうたっていました。見える力も大事だけれど、もっと大事なのは見えない力。お茶の水女子大の副学長も務めた内田伸子さんの学説で、それが当時の保護者によい形で受け入れられました。その翌年の学習指導要領の改定で、当時の文部省による「ゆとり教育」が始まりました。

 ちょうどその頃、「3歳からでは遅過ぎる」というSONY創業者の井深大さんの本が出て、89年から「マイファーストSONY」という知育教材を開発して、同社がこの分野に参入しています。

森上展安 森上教育研究所代表
[聞き手] 森上展安(もりがみ・のぶやす)
森上教育研究所代表
1953年岡山生まれ。早稲田大学法学部卒。学習塾「ぶQ」の塾長を経て、88年森上教育研究所を設立。40年にわたり中学受験を見つめてきた第一人者。父母向けセミナー「わが子が伸びる親の『技』研究会」を主宰している。

――そうだったのですか。全然存じ上げませんでした。

水野 当時、学研の『科学と学習』が数十万部くらいの牙城(がじょう)を築いていました。そこで5万部を目標にしましたが、うちの営業からは「3万部だって無理ですよ」といわれていました。部数は結果だから、まずは自分たちの訴えたいことをしっかりやろうと。その結果、運よく7万部からスタートし、18万、24万、32万と伸びて100万部までいきました。私の辞めた後には150万部に達しています。今では中国での部数の方が、多くなったとも聞きました。

――「しまじろう」がキャラクターの大化け商品でしたね。

水野 「しまじろう」という名前は、しま模様の次郎ということで編集部員が考えました。別に深く考えたわけではなかったのですが、人気を博した当時から「なぜトラなのか」はいろいろな場で尋ねられましたね。

 いつも公の場で答えていたのは、擬人化しやすい、まだ手あかがついていない動物がキャラクターにいいなと。トラを商標に使っていたのは、当時はタイガー魔法瓶とタイガーボードの吉野石膏くらいのものでした。

 幼児の好きな動物ランキングでトラはベスト30にも入っていませんでした。ジャッカルやハイエナよりも低い。

――もうちょっと人気かと思っていました(笑)。

水野 今はともかく、当時は人気がなかった。男の子はトラにして、女の子はかわいい動物にしようと。ヒツジはベスト10に入っていましたので「らむりん」に。そこに副編集長の名前を取ったリエお姉さんが加わりましたが、これだとデザインが安定しないという彼女の提言で、しゃべれる鳥のキャラクターとして「とりっぴい」が加わりました。デザイン的なセンスから編集全般において、「こどもちゃれんじ」の骨格を作った、極めて優秀な編集者でした。とりっぴいはたこ焼きが好物なのですが、なぜそうなのかは分かりません(笑)。37年後の今も、変わらないのでしょうか。

パペット
自らの名前も入った「しまじろう」のパペットと共に