非認知能力を育む「こどもちゃれんじ」
――「こどもちゃれんじ」は絵本の要素が強いですが、作家を探すのは大変だったのでは。
水野 創刊号はこの人しかいないとお願いしたのが、当時すでに76歳だった熊田千佳慕(ちかぼ)さんでした。全然計算していませんでしたが、「創刊号は熊田さんです」と執筆依頼に行くと、皆さん快諾してくれました。『冒険図鑑』(小学館)などネイチャーアート界の第一人者として知られる松岡達英さんもその一人。熊田さんに憧れてネイチャーアーティストになったからです。
ただ、熊田さんは浮世離れした人なので、締め切りとか一切考えていません。5ページの内、1ページ目が入ったのが色校正の日で、最後の1枚は校了の日でした。
――結果的にすべてがよい方向に進みましたね。
1988年創刊の「こどもちゃれんじ」は、非認知能力の育成をうたっていました。見える力も大事だけれど、もっと大事なのは見えない力。お茶の水女子大の副学長も務めた内田伸子さんの学説で、それが当時の保護者によい形で受け入れられました。その翌年の学習指導要領の改定で、当時の文部省による「ゆとり教育」が始まりました。
ちょうどその頃、「3歳からでは遅過ぎる」というSONY創業者の井深大さんの本が出て、89年から「マイファーストSONY」という知育教材を開発して、同社がこの分野に参入しています。
――そうだったのですか。全然存じ上げませんでした。
水野 当時、学研の『科学と学習』が数十万部くらいの牙城(がじょう)を築いていました。そこで5万部を目標にしましたが、うちの営業からは「3万部だって無理ですよ」といわれていました。部数は結果だから、まずは自分たちの訴えたいことをしっかりやろうと。その結果、運よく7万部からスタートし、18万、24万、32万と伸びて100万部までいきました。私の辞めた後には150万部に達しています。今では中国での部数の方が、多くなったとも聞きました。
――「しまじろう」がキャラクターの大化け商品でしたね。
水野 「しまじろう」という名前は、しま模様の次郎ということで編集部員が考えました。別に深く考えたわけではなかったのですが、人気を博した当時から「なぜトラなのか」はいろいろな場で尋ねられましたね。
いつも公の場で答えていたのは、擬人化しやすい、まだ手あかがついていない動物がキャラクターにいいなと。トラを商標に使っていたのは、当時はタイガー魔法瓶とタイガーボードの吉野石膏くらいのものでした。
幼児の好きな動物ランキングでトラはベスト30にも入っていませんでした。ジャッカルやハイエナよりも低い。
――もうちょっと人気かと思っていました(笑)。
水野 今はともかく、当時は人気がなかった。男の子はトラにして、女の子はかわいい動物にしようと。ヒツジはベスト10に入っていましたので「らむりん」に。そこに副編集長の名前を取ったリエお姉さんが加わりましたが、これだとデザインが安定しないという彼女の提言で、しゃべれる鳥のキャラクターとして「とりっぴい」が加わりました。デザイン的なセンスから編集全般において、「こどもちゃれんじ」の骨格を作った、極めて優秀な編集者でした。とりっぴいはたこ焼きが好物なのですが、なぜそうなのかは分かりません(笑)。37年後の今も、変わらないのでしょうか。