プチホテルの経営者から民間人校長に

――千葉県の民間人校長になるまで何をされていたのでしょう。

水野 編集部の後、大阪支社長とかマネジメントに移りましたが、編集現場の方が楽しかったので、寂しくなって2004年に会社を辞めました。妻と2人、伊豆高原(静岡・伊東市)で1日2組だけ泊めるプチホテルを経営しました。まず、都会から離れたかった。本を読みたかった。そして、本を書きたかった。

――どのような本を読んでいましたか。

水野 藤沢周平、吉村昭、宮城谷昌光、杉本苑子、高杉良、池井戸潤・・・これらに加えて、太宰治、夏目漱石、開高健は全集が手元にあったので再読しました。会社員時代はどうしてもビジネス書に偏っていましたから、その頃手にしなかった小説をまとめて読みました。eブックオフで大量注文して、読み終わると段ボール箱に詰めて、近くにあったブックオフに売りに行くことを繰り返していましたね。

――本も書かれたのですか。

水野 本を読む以外は、釣りくらいしかやることはありませんでした。海の状態によるので、週に2~3回は釣りには行けません。3~4年たって、釣り場で知り合った漁協の組合員と話していく中で、環境問題と地域の子どもたちの進路に関心が出てきました。

 この地域のキャリア教育を考えたら物語が作れる、と考えて「海師の子」(『釣聖(ちょうせい)』に収載/静岡新聞社)を書いてみましたら、第11回伊豆文学賞を受賞しました。授賞式の時、作家の村松友視さんから「最優秀賞を争った」と聞きましたが、結果的には優秀賞に。今も伊豆の地を愛する思いは強いので、再挑戦したいですね。

――そのまま進んでいたら作家人生でしたね。

水野 次の本を書こうというのでネットで調べていたら、千葉県教育委員会がヒットしました。校長をネットで募集するのか?!(笑)。作文が条件だったので書いてみました。同様に募集していた青森県でも論文が通っていましたので、やまびこ(東北新幹線)の切符を買って青森に出発する前日、「合格しました」と千葉県から連絡がありました。

――論文の課題は何でしたか。

水野 「あなたの考える学校改革」というようなもので、「私は教員の応援団になりたい」と書きました。最後の防波堤である学校が崩れたら、社会がガタガタになる。青臭いことを本気で書きました。伊豆にいて本を読んでいても、当時の教育を取り巻く社会情勢が本当に危なくなっていたことを感じていたのだと思います。

――ちょうどリーマンショックの頃ですね。

水野 教育左派というのですか、太郎次郎社とか晩翠吟社から出ていたそういう本を学生時代から好きで読んでいたことも影響していました。一方で、「こどもちゃれんじ」からのコンセプトでもある、子どもたちの好奇心や学ぶ意欲、動機をどう高めるかという意識もありました。

――「水道方式」を提唱された遠山啓さんとかですね。

水野 そうです。そういえばプチホテルの最後の大物ゲストはつかこうへいさんでした。熱海に稽古場を探していたということで、チェックインをされた時に、おそるおそる「つかさんですか」と尋ねたら、「分かった?」と(笑)。

 「平田満さんは高校の先輩で、前職の企業では講演もお願いしましたから」と言いましたら、「なに、平田が講演だって!?」とさっそく劇作家の長谷川康夫さんに電話をして。「代わって話してやってくれ」と携帯電話を渡されましたが、憧れの名演出家であり、脚本家の長谷川さんとも話ができて震えました。この夜、つかさんとワインを飲みあかし、お見送りする時に「また来るからな」と言われましたが、私が伊豆を離れて程なく(2010年7月)亡くなってしまい、びっくりしました。悲しかったですね。

ホテル
結果的に5年間の充電期間となった伊豆高原でのプチホテル経営 写真提供:水野次郎氏

(続く)