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いま世界の哲学者が考えていること
【第10回】 2016年10月6日
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岡本裕一朗

犯罪者予備軍に道徳ピルを飲ませれば世界は平和になる?

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世界の哲学者はいま何を考えているのか――21世紀において進行するIT革命、バイオテクノロジーの進展、宗教への回帰などに現代の哲学者がいかに応答しているのかを解説する哲学者・岡本裕一朗氏による新連載です。いま世界が直面する課題から人類の未来の姿を哲学から考えます。9/9発売からたちまち重版出来(累計2.1万部)の新刊『いま世界の哲学者が考えていること』よりそのエッセンスを紹介していきます。第10回は脳科学の発展がもたらしうる刑罰制度崩壊の衝撃を解説します。

脳を検査すれば犯罪者予備軍がわかる?

2011年10月、中国の広東省仏山市で、痛ましい事故が起こりました。2歳の少女が車にひかれ、その車はそのまま走り去ったのです。これだけでも悲痛な話ですが、さらに恐ろしいことが続きました。重傷を負って動けなくなったその少女を、通行人は見て見ぬふりをして、誰一人助けようとしなかったのです。

ずっと道に横たわっていた少女は、さらに別のトラックにひかれて、ついには死亡してしまいました。監視カメラに収められたこの映像が、世界中を駆け巡り、衝撃映像として伝えられたことはご存じかもしれません。こうした話題を糸口に、オーストラリア出身のプリンストン大学教授ピーター・シンガーは「ニューヨークタイムズ」紙の記事で、およそ次のようなことを語っています。

脳科学の研究は、他人を援助する道徳的な人と援助しない非道徳的な人の脳で、どのような生化学的相違があるのか明らかにしてきた。この研究が続けば、やがては道徳ピル(他人をより援助するようにさせる薬)に行きつくだろう。そうなると、犯罪者たちに、刑務所に行く代わりに、道徳ピルを飲むという選択肢を提示できるかもしれない。また、政府は、国民の脳を検査して、犯罪を行ないそうな人々を見つけ出し、彼らに道徳ピルを飲むように提案することもできるだろう。もし、これを拒否したら、いつでも居場所が分かるように、GPSを取り付けたらいいかもしれない。

一見したところ、この記事の内容は現実離れしたSFのように思われるかもしれません。たとえば、「道徳ピル」といった薬がはたして製造可能なのか、脳の検査によって犯罪者(あるいは犯罪者予備軍)と非犯罪者を見分けることができるのか、「道徳ピル」によって犯罪を未然に防ぎ、さらに人々をより道徳的にすることが実現するのか、など疑問は尽きません。しかし、このシンガーの記事を読むと、現代における人間(脳)をめぐる状況が、はっきりと浮かび上がってきます。

それは、善悪の判断や直観が脳にもとづいているため、人間の行動を変えるには脳に働きかけなくてはならないという発想です。これは20世紀の末に、脳科学(神経科学)が飛躍的に進展し、MRIなどの脳画像法によって脳の働きが視覚化されることにもとづいています。これまで脳の研究といえば、頭の中に隠されていて、生きている人間の脳を直接観察することはほとんどできませんでした。それが今や、脳画像法によって、脳の活動が目に見えるようになったわけです。

こうした状況から、今まで前提とされてきた考えや制度を、あらためて検討する必要が出てきたのです。近代社会で通用していたパラダイムが、脳科学の研究とともに、もはや適切でなくなるかもしれません。その点を、ここで少し掘り下げてみたいと思います。

シンガーの記事では、脳の検査によって道徳的な人と非道徳的な人の区別ができる、とされています。しかし、そもそも、そのようなことが可能なのでしょうか。おそらく、このときシンガーの念頭にあったのは、ポルトガル出身の南カリフォルニア大学教授アントニオ・ダマシオをはじめとした脳科学研究でしょう。

ダマシオは、ベストセラーとなった著書『デカルトの誤り―情動、理性、人間の脳』(1994年)のなかで、フィニアス・ゲイジという人物を取り上げ、その人の脳と行動の関係について、定説化された話を提示したのです。ここでは、脳科学者のガザニガの記述を使って、ゲイジについて確認しておきましょう。

フィニアス・ゲイジは、神経心理学の分野で史上もっとも有名な患者の一人である。ゲイジが鉄道工事の現場で仕事をしていたとき、火薬を詰める鉄棒が爆発事故で吹き飛んで、ゲイジの頭を貫通した。この事故のせいでゲイジの前頭部は損傷を受ける。けがから回復したゲイジはうわべは正常に見えたが、昔から彼を知る人はいくつかの変化に気づき、彼は「もはやゲイジではない」といって嘆いた。事実、ゲイジの性格は一変していた。抑制がきかず、衝動を抑えられず、社会のルールに反した行動をとる人間に変貌していたのである。

ダマシオは、残されたゲイジの頭蓋骨から、脳のどの部分に損傷を受けたのか割り出し、それが「前頭前野の中央部の下側にある眼窩領域」だったことを明らかにしたのです。現在の研究では、この部分に損傷を受けると、行動の抑制がきかなくなり、社会的なルールが守れなくなる、と言われています。それに対して、ゲイジは、知的な活動をする脳の部分には損傷を受けなかったので、知的能力の低下は見られなかったそうです。ここから推測されるのは、知的な活動と道徳的な活動が、脳の異なる領域で行われている、ということです。

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キーワード  犯罪 , 道徳 , 刑罰
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岡本裕一朗[玉川大学文学部教授]

1954年、福岡に生まれる。九州大学大学院文学研究科修了。博士(文学)。九州大学文学部助手を経て、現在は玉川大学文学部教授。西洋の近現代思想を専門とするが、興味関心は幅広く、領域横断的な研究をしている。
著書に、『フランス現代思想史―構造主義からデリダ以後へ』(中公新書)、『思考実験―世界と哲学をつなぐ75問』『12歳からの現代思想』(以上、ちくま新書)、『モノ・サピエンス―物質化・単一化していく人類』(光文社新書)、『ネオ・プラグマティズムとは何か―ポスト分析哲学の新展開』『ヘーゲルと現代思想の臨界―ポストモダンのフクロウたち』『ポストモダンの思想的根拠―9・11と管理社会』『異議あり! 生命・環境倫理学』(以上、ナカニシヤ出版)、共著に『ヘーゲル入門』(河出書房新社)、『差異のエチカ』(ナカニシヤ出版)、共訳にトマス・ネーゲル『哲学ってどんなこと?―とっても短い哲学入門』(昭和堂)などがある。


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