刑罰制度が無効化する時代はくるのか

脳科学研究が今後、法や道徳に与える影響は決定的になることでしょう。近代的な刑罰制度においては、人々が合理的〔理性的〕な判断に対する一般的な能力を持っているということが前提とされていました。だからこそ、犯罪において善悪の判断能力が問題にされるわけです。また、犯罪に対する責任として刑務所に収監するのも、自分の行為に反省を加え精神を矯正するためでしょう。

ミシェル・フーコーは、『監獄の誕生─監視と処罰』において、近代的な監獄制度がどのように成立したかを描いています。そのポイントとなるのは、絶対王政的な残虐な刑から、規律訓練にもとづいて精神を矯正する刑への転換にありました。このとき前提にあるのは、理性的な判断能力を持つ個人という概念です。

ところが、フーコー自身も気づいていたように、こうした近代的な刑罰制度は、破綻しているのではないでしょうか。
刑務所に収容したところで、犯罪者の精神が矯正されるとはかぎらないのです。そもそも、個々人が「理性的な判断能力を持つ」と前提できるのでしょうか。責任能力の有無が問題になりますが、それは処罰において機能しているのでしょうか。いったいどうして犯罪者は、その行為に及んだのでしょうか。もしかしたら、その犯罪者は、自由に行為したわけではなく、そうせざるを得なかったのかもしれません。

脳科学研究は、まさにこうした近代的な刑罰制度の前提に問いかけるのです。個人が理性的な判断能力を持ち、自由に行為できるというのは本当なのでしょうか。とりわけ、犯罪者の場合、脳の回路に原因があって、犯罪を引き起こしたのではないか、と脳科学者は考えるでしょう。凶悪犯や薬物中毒者の脳が、しばしば例証的に示されることもあります。今のところ、確定的な証拠がないとしても、脳を原因として犯罪行為が生み出されたことは間違いない、とされるでしょう。「犯罪の原因はその人の脳で(に)ある」と言われる日も、遠くないかもしれません。

その時には、処罰のあり方も当然変わってこなければなりません。現在のように、刑務所に収容しても、犯罪の原因は何も変わらないのですから、精神を矯正できないはずです。とすれば、近代的な処罰に代わるどんな方法があるのでしょうか。それを構想すべき時が、やがて到来するのではないでしょうか。私たちは今、近代的な処罰制度の黄昏に立っていることは間違いなさそうです。