「説明責任」
――客観的な基準を明らかにすべき
小沢一郎元民主党代表が、検察審査会の起訴相当の議決に基づき強制起訴された。小沢氏は法廷で無実を主張する方針を表明し、離党や議員辞職を否定した。また、小沢氏の政治倫理審査会への出席はいまだに実現していない。野党、マスコミだけでなく、菅直人首相、岡田克也民主党幹事長など民主党政権内部からも、小沢氏が国会で「説明責任」を果たし、政治家としてのケジメをつけるべきだとの発言が相次いでいる。
「説明責任」は、いまや政局のキーワードだ。しかし「説明責任」という言葉の意味は明確ではない。嫌疑をかけられた政治家は、どこまで国民に対して説明をすれば「説明責任」を果たしたとされるのか、明らかではないのだ。
これでは、小沢氏が政倫審に出席してなにを話しても、野党・マスコミは「まだ説明責任を果たしていない」と批判するだろう。野党・マスコミは政倫審に臨む前に、小沢氏が果たすべき「説明責任」の基準を明らかにすべきだ。菅首相がその基準を明示するのでもよい。小沢氏の「説明責任」が客観的な基準で公平に評価されるのでなければ、政倫審を開催する意味はない。
ただ、「説明責任」の意味を明らかにしない野党・マスコミの姿勢を理解はできる。小沢問題を巡る政局の本質が「政治とカネ」の問題の根本的解決ではなく、民主党政権を打倒する権力闘争だからだ。しかし、政治学者に「説明責任」の意味を明確にせず、小沢氏に政倫審出席を要求する方がいる。言葉の定義を明確にすることが、学問の第一歩ではないのだろうか。
「推定無罪」――裁判が結審するまで
「政治的・道義的責任」はない
政治学者の立場から言えば、検察審査会による強制起訴に対しては、裁判が結審するまで起訴された政治家の「政治的・道義的責任」を問うべきではない(前連載第60回を参照のこと)。検察審査会自身が主張するように、「(検察審の制度は)公正な刑事裁判の法廷で白黒つけようとする制度」だ。これは政治家の疑獄事件を扱ってきた従来の特捜事件の裁判とは異なる。