「私は、伊藤隆嗣と申します」

「中国語がお上手ですねえ」

「今年の3月まで、こちらへ留学していましたから」

「ほう。では、今回はお仕事で上海へいらしたんですか?」

 隆嗣は返答に窮したが、かろうじて答えた。

「いえ、私はまだ学生です。今回は……旅行で来ました」

「そうですか。いや、あなたの語学力と度胸には感服しました。それに、中国の事情にも大変お詳しいようだ……。いつまで上海へ滞在される予定ですか?」

 初対面なのに踏み込んでくる岩本の話し振りに、戸惑いながら隆嗣が答えた。

「決めていません」

 簡潔に言われた岩本は、却って喜んだ。

「初対面でいきなりこのようなお願いをしては恐縮ですが、私を助けてくれませんか?」

 話の要点がつかめず、隆嗣が顔に疑問を浮かべる。

「私は、先ほど申しました上海市木材進出口公司との補償貿易交渉のためにやって来たんです。しかし、相手側の責任者は毎日入れ替わるし、条件もコロコロと変えられて、なかなか話が進展しないまま、3日も無駄にしてしまいました。先方の通訳が話す日本語は満足とは言えず、私の意見が十分に通じているのかもわかりません。それで……」

「それで……?」隆嗣は、岩本に話の先を促した。

「あなたに、私の通訳として一緒に交渉の席へ出ていただくわけにはいかないでしょうか? もちろん報酬をお支払いします。1日1万円、いや2万円でいかがでしょう」

 しばらく考え込んだ隆嗣が、上目遣いに質問する。

「何日間ぐらいになりますか?」

「私は1週間の予定で出張して来ました。明日からの残り4日間をお願いしたいが……」

 隆嗣は逡巡した。肝心の目的に費やす時間を割かれることになるが、4日間で8万円の収入が得られれば、現在寝床にしている10人部屋ドミトリーの宿泊料と街中での格安の食事、それに、目的のために必要な活動費を考え合わせても、2週間以上は滞在延長できる資金になる。隆嗣は決めた。

「わかりました、引き受けましょう。しかし、ビジネスなど知らない私には、本当に通訳しか出来ませんよ」

「ありがたい、もちろんそれで結構です。信用できる通訳がいるだけで、私も安心して交渉に臨むことが出来る」

 岩本は満面の笑みを浮かべた。

(つづく)