少年時代に入園していたキリスト教系「施設」での経験をもとに、時に涙を流しながら、時に讃美歌を口ずさみながら、そして何より元気をもらいながら書き上げたという。自伝的長編小説『めぐみ園の夏』(新潮社)の刊行を契機に、経済小説の第一人者が初めて自らの生い立ちを語った。(聞き手/ダイヤモンド社論説委員 鎌塚正良)
──かつて「週刊ダイヤモンド」に小説を連載していただいた縁で10年以上にわたってお付き合いをさせていただいていますが、そのような生い立ちについてはついぞ知りませんでした。
自分の子どもたちにもほとんど話したことはないんです。もちろん親しい編集者や友人にも。妻にだけは打ち明けていましたが、それほど多くを語ったわけではない。そりゃそうでしょう。「施設の子」だったなんて告白しても、なにもいいことはないですから。
小学6年生だった昭和25年の夏休みに、僕は2歳上の姉、4歳下の弟、9歳下の妹の3人とともに千葉県二宮町(現在は船橋市)にあったキリスト教系の養護施設に預けられたのです。
昭和25年といえば朝鮮戦争が勃発し、やがて特需景気が始まるわけですが、当時はまだ太平洋戦争後の混乱のさなかで日本の先行きは杳として知れませんでした。
実際、施設は戦災孤児だらけで、父も母も健在なのに入園していたのはわれわれ4人きょうだいだけ。つまり、僕たちは両親に見捨てられたわけです。
施設の食事のまずさといったらなかったし、粗暴な高3の園長の子息からは首を絞められるし、施設を経営していた園長夫婦は理不尽そのもの。施設から小学校に通い始めると、「臭い」「残飯野郎」などとさんざん差別され、いじめられました。
とある日、学校から帰ってくると、いちばん下の妹は養女に貰われていって突然いなくなった。そんな自分の生い立ちなんて話したくもないし、思い出したくもない。それくらいつらい話なのです。