この連載の第18回で、ウィーン大学ベーム=バヴェルク名誉教授のゼミナールを受講した1905年夏学期、マルクス経済学に関する激論があったことを書いた。ゼミナールに参加した学生は、シュンペーターのほか、ミーゼス、レーデラー、バウワー、ヒルファーディンク、ゾマリーらである。卒業から10年余、第1次大戦終結時にはそれぞれの経済思想を磨き上げ、ドイツとオーストリアで重要な立場にあった。

 1914年第1次大戦勃発、1917年ロシア革命、1918年オーストリア革命、ドイツ革命、そして1919年パリ講和会議。ドイツもオーストリアも帝政は崩壊し、革命を経て共和国が誕生する。

 マックス・ウェーバーがシュンペーターとの対話を経て、ウィーン大学教授の任期(1918年夏学期)を終えた同年秋、西部戦線ではドイツ、オーストリア同盟国側の敗戦が確定的となり、両帝国内の政治状況も一変することになる。詳しく経過を追ってみよう。

ドイツ、オーストリアの敗戦
帝政から共和政へ

 1918年春以降の状況はこうだ。

 ソビエト政権との講和後、西部戦線で3月から大攻勢に出たドイツ軍は、数ヵ月間にわたる作戦ののち、7月の英米仏協商国側の反攻を経て、8月に入ると後退を余儀なくされる。つまり敗走が始まった。オーストリアの正面、バルカン半島の戦線でも敗退している。

 当時、ドイツ帝国を政治的に支配していたのは陸軍参謀次長のエーリッヒ・ルーデンドルフ(参謀総長はパウル・フォン・ヒンデンブルク)だった。ルーデンドルフも8月に「敗戦」を確信し、9月には講和交渉を政府に委ねている。

 一方、オーストリア帝国も皇帝カール1世が8月に「講和」を訴えるようになった。9月には同盟国のブルガリア王国が休戦協定を結び、同盟国側の敗戦が決定的となる。

 ウィルソン米大統領の「平和のための14ヵ条」を受け入れるしかなくなったのだが、ここからドイツ帝国は(オーストリア帝国も)迷走をはじめ、革命を迎えることになる。

・10月末、ウィルソンの要求に答えてドイツは君主制下の議会制を整備しはじめる。トルコ帝国、休戦。同盟側3大帝国の一角が崩れる。

・11月3日、オーストリア帝国、連合国(協商国)と休戦協定。

・11月4日、ドイツのキールで出撃命令を受けた水兵が反乱を起こす。

・11月8日、ミュンヘンで労兵評議会(レーテ=ソビエトのような組織)がバイエルン共和国を宣言。

・11月9日、帝政打倒を訴える革命運動がベルリンへ飛び火し、大混乱に。バーデン公マクシミリアン(マックス)首相がヴィルヘルム2世の皇帝退位を宣言し、社会民主党のフィリップ・シャイデマンが共和国を宣言する。

・11月10日、ヴィルヘルム2世、オランダへ亡命。

・11月11日、ドイツ、協商国(米国を含む連合国)と休戦協定を結び、ついに第1次大戦が終結した(※注1)。この日、ハプスブルク皇帝(オーストリア皇帝兼ハンガリー国王)カール1世は国事行為から離れ、ハンガリー王国の支配を放棄し、オーストリア帝国も共和制に移行する(のちにハプスブルク一族は亡命)。

極左と極右がぶつかり合う
ドイツ仮政府

 ドイツでは皇帝が亡命した11月10日、すぐに革命政府が成立する。政府といっても、選挙までの仮政府である。帝国議会を廃し、国民議会選挙を1919年1月19日に行なうことが決まった。