トランプ米大統領の暴走を抑えうる側近の一人と目されている、マティス米国防長官。超ストイックな職業軍人として知られるマティス長官は、大変な読書家でもあり、学者顔負けの軍事史の専門家でもあります。彼もメンバーの一員として名を連ねる米国家安全保障委員会(NSC)は今年5月、ホワイトハウスでの会合にハーバード大学ケネディ行政大学院のグレアム・アリソン教授を招いて、「トゥキディデスの罠」についての解説を聞いたとか。その全容がまとめられた新刊“Destined for War-Can America and China Escape Thucydides's Trap?”(邦訳版『米中戦争前夜 新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』)がアメリカで発売される直前のことでした。この“罠”が怖いのは、新旧大国の指導者たちが戦争を避けるつもりでも、偶発的事故やプライドが絡み合って、戦争になだれ込んでしまうところ。果たして、マティス長官が防波堤となってアメリカはその罠に陥らずに済むのでしょうか? トランプ大統領来日を目前に控え、邦訳版の訳者・藤原朝子さんによるコラムをお届けします。

 4日後に迫った11月5日、ドナルド・トランプ米大統領が日本にやってくる。その後、韓国、中国、ベトナム、フィリピンも訪問して、そのままマニラで開かれる東アジアサミットに出席……かと思いきや、サミットはパスして帰国するという。ビジネスマンとして1対1の交渉で取引をまとめることが得意な(と本人は言っている)トランプとしては、その技を発揮しにくい多国間協議には魅力を感じないのであろうか。そういえばNATO首脳会議やG20首脳会議でも、所在なさそうに座っている姿が目撃されていた。

 そのトランプ訪韓の「下見」として、マティス米国防長官が先週、韓国を訪問した。退役海兵隊大将のマティスは、現役時代はアフガニスタンやイラクで実戦を指揮し、マッド・ドッグ(狂犬)と異名を取る超ストイックな職業軍人として知られた。そんなマティスに、トランプは絶大な信頼を寄せているらしい。シリアや戦略やアフガニスタン戦略でも、「詳細はマティスら国防チームに任せる」という姿勢を取ってきた。

トランプ大統領を見やるマティス国防長官(UPI/アフロ)

 とはいえ、マティスは決して「トランプの犬」ではない。
 たとえば今年6月、トランプ政権初の閣議で、全閣僚が自己紹介をしたときのこと。最初に指名されたマイク・ペンス副大統領が、「大統領に仕えることができるのは、人生最高の栄誉です」と口火を切ると、閣僚たちは次々と歯の浮くような言葉でトランプへの忠誠を口にした。そんななか、マティスだけが、「トランプに仕える」という表現を避け、「命がけで戦う兵士をはじめ国防総省の職員を代表することを光栄に思う」と語った。すぐ隣に座っていたトランプの微妙な表情といったら……。

 そんなこともあり、マティスをトランプ政権の暴走を抑える側近の一人、と見るアメリカのメディアは多い。実際、マティスは華麗な軍歴を誇るだけでなく、大変な読書家で、学者顔負けの軍事史の専門家としても知られる。マティスがとりわけ愛読するのは、古代ローマの皇帝マルクス・アウレリウスが書いた『自省録』だという。だとすれば、この時代が起源とされる警句「平和を願うなら、戦争の準備をせよ」を肝に命じているはずだ。

 先週、韓国と北朝鮮との間にある非武装地帯(DMZ)を視察したときも、マティスは「われわれの目的は戦争ではない」と明言しつつ、板門店にいた韓国兵たちにこう語っている。「韓国人とアメリカ人が(朝鮮戦争で)共に戦い、多くの命を失ったことを忘れてはならない。だからこの問題(北朝鮮の核問題)を外交的に解決するために、われわれはあらゆる手を尽くす。しかし究極的には、外交官が強い立場で交渉に臨むためにも、陸海空軍の強力なサポートが必要だ」。つまり外交的解決を徹底的に探りつつ、いつでも軍事的選択肢を取れる準備を万端に備えておけ、というのだ。

 マティスもメンバーの一員である米国家安全保障委員会(NSC)は今年5月、ホワイトハウスでの会合にハーバード大学ケネディ行政大学院のグレアム・アリソン教授を招いたとされる。テーマは「トゥキディデスの罠」。古代ギリシャの歴史家トゥキディデスが、ペロポネソス戦争の経緯を観察して、新興国(アテネ)のがむしゃらな拡大が、優位を失いたくない覇権国(スパルタ)の不安を招き、戦争を不可避にしたと指摘したことに由来する。アリソンはこの力学を「トゥキディデスの罠」と名づけ、現代の中国とアメリカがこの罠にはまりつつあると、新著『米中戦争前夜――新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』(原題:Destined for War-Can America and China Escape Thucydides's Trap?)で警告している。

 トゥキディデスの罠の「罠」たる所以は、指導者たちが戦争を避けるつもりでも、偶発的事故やプライドが絡み合って、戦争になだれ込んでしまうところにある。その点、現在の北朝鮮情勢は、アメリカと中国を戦争に引きずりこむ可能性が十分ある、とアリソンは指摘する。残念ながら読書嫌いのトランプは、歴史を学ぶタイプではなさそうだ。それだけに、狂犬転じてスーツを着込んだ哲人将軍マティスの役割が、ますます大きな意味を持ちそうである。