なぜ製品ごとではなく「事業全体」のブランディングにかじを切ったのか

――花王は、2024年にヘアケア事業の変革をスタートしました。まずは、その背景について聞かせていただけますか。

野原 シャンプーやトリートメントといったヘアケア領域は、花王にとって看板事業です。実に、100年以上の研究・開発の歴史を持ち、数多くの製品を発売してきました。

その重点事業の一つであるヘアケア事業が、23年まで9年連続で売り上げシェアを落とすという厳しい状況に追い込まれてしまいました。これは、15年ごろから、ハイプレミアム品を次々と市場に投入する新興ブランド群が台頭し、シェアを奪われたためです。

ここで、起死回生を図るべく、事業部長や開発部長などの人事も刷新して、23年ごろからヘアケア事業の変革に向けて本格的な準備を始めました。目指したのは、ずばり、売り上げシェアの回復です。そして、何よりも持続的な事業成長の礎を築くことです。

そもそも事業変革を成功させるには、お客さまの心の中に製品やサービスに対する良いイメージや信頼といった価値、つまり「資産」を築くことが重要だと思っています。その資産を、最も効率的・効果的に蓄積していくのが「ブランド」です。

なので、事業変革において強力なブランドづくりは必要不可欠であり、それなくしての成功は考えられません。

――具体的に、どのような変革の道筋を描かれたのですか。

野原 最初に取り組んだのは、ヘアケア事業としてのパーパスの策定です。

売り上げシェアが落ち込み始めた10年ほど前から、幾つもの打開策は打ってきたものの、なかなかうまくいきませんでした。原因を追究した結果、「メリット」や「エッセンシャル」といった既存ブランドごとにてこ入れを図っても、勢いのある新興ブランドのハイプレミアム品には容易に勝てないことが分かったのです。

そこで、施策を根本から見直し、個別ブランドではなく、花王のヘアケア事業全体として、どのようにブランディングしていくかを考えることにしました。

「なぜ、花王のヘアケア製品は世の中に存在するのか」というパーパスが定まらないと、そもそもブランドとしての個性を打ち出せませんし、変革の道筋も描きようがありません。

最終的に決めたのは、「髪の生きる力を、人の生きる力へ」というパーパスです。

9年連続シェア減からのV字回復。花王ヘアケア事業を変えた「事業ブランディング」の秘策とは何か花王 ヘルスビューティ事業部門 ヘアケア事業部 ブランドマネジャー
野原 聡

――どんな思いが込められているのでしょうか。

野原 古来日本では、髪は「生命の証し」として大切にされてきました。美しい髪は、人に自信や生きる喜びをもたらします。花王は、そんな偉大な力を持つ髪について、より美しくする研究を100年以上も行ってきました。花王のヘアケア製品には、他の製品にはない「深み」と「奥行き」があります。まさに、そんな花王らしさを強く打ち出したいと思ったのです。

24年4月には、このパーパスに沿って開発した新ブランドの第1弾として、休みながら髪を美しくする“休息美容”をコンセプトとする「melt(メルト)」を、同年10月には、花王が考える美髪五大必須成分を配合した第2弾の「THE ANSWER(ジアンサー)」を発売しています。さらに第3弾として、25年8月には、髪も気分も弾む“ブーストケア体験”を提案する新ヘアケアブランド「MEMEME(ミーミーミー)」を発売しました。

三つのプロセスで事業変革を支援する電通の「Branding for Growth」

――山口さんは、電通が提供する企業の事業変革を実現するためのブランディングプログラム「Branding for Growth」を推進しておられます。その山口さんからご覧になって、花王のヘアケア事業変革はどんな点が特徴的だと思いますか。

山口 これまでのブランディングは、製品・サービスの認知向上や、生活者とのコミュニケーションのための取り組みと認識されていました。しかし、生活者の価値観が急速に変化する中、個別の製品・サービスだけでなく、事業そのものの変革や成長を促すための手段としてブランディングに取り組む企業が増えています。花王のヘアケア事業変革は、その典型的な成功例の一つだと思います。

「Branding for Growth」では、自社のDNAを生かしたブランドアイデンティティーを再定義した上で、事業変革で目指す姿を描く(1)ブランドアーキテクチャー、事業変革をけん引する新しい事業のビジネス構造を設計する(2)事業価値デザイン、事業変革を実現する習慣づくりを支援する(3)習慣アクティベーションの三つのプロセスを提供します。

これらのプロセスを回していくための土台となるのがブランドアイデンティティーであり、花王が掲げた「髪の生きる力を、人の生きる力へ」というパーパスは、まさにそれに当たるものです。

ブランドアイデンティティーは、そのブランドの製品・サービスを購入するアウター(消費者)はもちろん、提供するインナー(社員)の意識や行動を「習慣」として定着させるためのきっかけになるので、これを最初にしっかりと定めることは、ブランディングによる事業変革を成功させるための重要なポイントだと考えます。

ところで、私は花王のヘアケア製品のブランディングをお手伝いさせていただいたことがありますが、野原さんがおっしゃったように、従来は個別製品ごとのアプローチが中心で、しかも機能面での価値を打ち出す傾向が強かったように思います。

9年連続シェア減からのV字回復。花王ヘアケア事業を変えた「事業ブランディング」の秘策とは何か電通 第2ビジネス・トランスフォーメーション局 グロース・ブランディング部 コンサルタント
山口久子

野原 おっしゃる通りです。どんな成分が含まれたシャンプーやトリートメントで、髪にどのような作用をもたらすのかという機能を強くアピールしていました。

しかし、機能の良さだけでは、150近いブランドが争うシャンプー、トリートメントの国内市場の中で個性を出すことはできません。そこで、新ブランドの製品については、「生活者の“直感的な気持ち”をいかに動かしていけるか」ということをゴールに定めました。

山口 従来とは異なるアプローチに転換したことに、社内からの抵抗はなかったのでしょうか。

野原 最初は危惧していたのですが、ほとんどなかったですね。驚いたのは、機能の開発に取り組んでいる研究所のスタッフたちが前向きに受け入れてくれたことです。

「使う人がこんな気持ちになるようなシャンプーにしたい」という斬新な“お題”が、むしろ研究者魂をかき立て、チャレンジ意欲に火を付けたのかもしれません。

「バケツリレー型」から「スクラム型」の開発体制に変革

山口 とても興味深い反応ですね。ところで、ヘアケア事業変革では、新製品の開発体制も大胆に変革したと伺っています。具体的に、どう変わったのでしょうか。

野原 従来の開発体制は、ヘアケア事業部が中心となって、研究・開発やコミュニケーションの形成、パッケージ作成、原材料の調達など、関連部署と1対1で調整を進めながら製品を作り上げていく「バケツリレー型」でした。

しかし、これでは関連部署間の横のつながりが生まれません。そこで、ヘアケア事業部もバリューチェーンの一員となり、各関連部署とフラットな関係性を保ちながら、部署を横断して自由闊達なコミュニケーションができる「スクラム型」の開発体制に変革したのです。

9年連続シェア減からのV字回復。花王ヘアケア事業を変えた「事業ブランディング」の秘策とは何か

山口 どんな効果が表れましたか。

野原 目指すゴールに向けて一つになって取り組むので、製品作りの一貫性が生まれたのは何よりの効果ですね。例えば「melt」に関しては、“休息美容”というコンセプトが決まっていたので、処方研究の担当者は「それなら、こんな成分にしたい」と提案し、それを受けた香料研究の担当者が「だったら、こんな香りはどうだろう?」とアイデアを重ねることで、どんどん製品のイメージが出来上がっていきました。

「バケツリレー型」に比べると、非常にテンポよく開発が進みますし、ゴールに対する共通認識があるので、出来上がった製品がコンセプトからブレることもありません。

「melt」の開発で「スクラム型」のひな型が出来上がったので、「THE ANSWER」と「MEMEME」の開発もスピーディーに進みました。ヘアケア以外の事業にも横展開できると考えており、すでに経営層にも「スクラム型」のメリットを報告済みです。花王全体のモノづくりが大きく変わるかもしれませんね。

山口 「スクラム型」がうまくいった要因は何だと思いますか。

9年連続シェア減からのV字回復。花王ヘアケア事業を変えた「事業ブランディング」の秘策とは何か

野原 部署間のコミュニケーションを円滑にしてくれるファシリテーターを配置したのが成功の理由の一つかもしれませんね。実は、その役目をお願いしたのは電通の方なんです。

「スクラム型」の大事な運営ポイントは、所属部門としてではなく、むしろ、個人の強みやスキルを最大限に引き出すことです。それを外部からフラットに引き出してもらえたのが良かったですね。

そして、外部の方が、第三者の立場で部署間の“橋渡し役”をしてくれた点が何よりも効果が大きかったと思っています。

――これまでの変革の成果はいかがでしょうか。

野原 おかげさまで、9年連続で落ち込んでいた売り上げシェアは、「melt」と「THE ANSWER」を発売した24年にV字回復を果たせました。新ブランドは数多くのアワードを受賞しており、中でも「THE ANSWER」は、「@cosmeベストコスメアワード2025 上半期新作ベストコスメ」において、シャンプー・トリートメントで同アワード史上初となる総合大賞を受賞しています。

「人の心」を動かし、変革への取り組みを「習慣化」する

――今後のヘアケア事業変革の展開についてお聞かせください。

野原 山口さんにお願いして、花王のヘアケア製品の技術情報を発信するサイトの準備を進めてもらっており、26年1月ごろに開設する予定です。

山口 花王が100年以上にわたって研究してきた処方や成分、最新技術について深く知ってもらうだけでなく、それが「髪の力」をどのように引き出すのかといった身近な情報も発信していく予定ですので、ぜひ楽しみにしていてください。

9年連続シェア減からのV字回復。花王ヘアケア事業を変えた「事業ブランディング」の秘策とは何か

――最後に、ブランディングによって自社の事業変革や事業成長を実現したいと考えている読者にメッセージをお願いします。

野原 パーパスや製品ごとのコンセプトに対する共通認識が出来上がっていないと、変革は思うように進みません。大切なのは、「なぜ変革が必要なのか」を繰り返し説き続けること。ブランディングは、その核となる重要なメッセージです。

山口 ブランディングとは、突き詰めれば「人の心を動かす」ことです。人の心を想像し、そこから価値を創り出し、それを実現する習慣へと変えていく。その積み重ねこそが、事業を成長させる力になると確信しています。

●問い合わせ先
株式会社電通
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