過激派の一つだった「赤軍派」の塩見孝也元議長が今月14日に亡くなった。享年76歳。1970年代末に「赤軍派の総括」をテーマに論争し、その後も付き合いがあった元連合赤軍兵士の植垣康博さんは「まさに反面教師。悪い人ではなかったが冗談が通じないクソまじめな人だった」と話す。
塩見氏の自著『赤軍派始末記』などによると、塩見氏は62年、京都大学文学部に入学した。間もなく活動家となり、京大教養学部(当時)の闘争委員長などを歴任。69年に武装闘争を唱えて赤軍派を結成して議長に就任した。
70年に逮捕。「よど号」ハイジャック事件など一連の赤軍派事件に関与したとして懲役18年の実刑判決を受けた。89年に出所した後は、北朝鮮にいる「よど号」グループと接触を重ねた。晩年は東京都内の駐車場に勤務。2015年4月には東京都清瀬市議選に無所属で出馬して落選した。
赤軍派と連合赤軍の関係も整理しておこう。塩見氏が逮捕された後の1971年に逮捕を免れていた赤軍派の一部が革命左派と合流し、連合赤軍となった。連合赤軍は同志12人をリンチ殺害した「山岳ベース事件」、人質と共に立てこもった「あさま山荘事件」を起こし、日本中を震撼させた。植垣さんは山岳ベース事件に関与し、あさま山荘事件の直前に長野県の軽井沢駅で逮捕された。
一兵士に過ぎなかった植垣さんにとって塩見氏は“雲の上の人”。そのため会ったことはなかったが、70年代末、「赤軍派の総括」をテーマに激論を交わした。互いに“獄中”のため、対面ではなく、「数えきれないほどの」(植垣さん)手紙の応酬、論文の送りつけ合いだった。
論争の結果、2人は80年に決別した。植垣さんは「塩見さんは結局、連合赤軍を自分の問題にできなかった」と述懐。塩見氏は「(植垣さんは山岳ベース事件での)『粛清』の『同志殺し』を居直ることで、僕から去ってゆきました」と自著『監獄記』に記している。
塩見氏が亡くなった後の本誌の取材に対し、植垣さんが答えた塩見評は悲しいほど低かった。「超主観主義の人だった。他人の意見を聴かないどうにもならない人だった」。だが植垣さんによると、そんな塩見氏も晩年は集会で顔を合わせると、アジり方(過激な言動で扇動する方法)が控えめになっていたという。植垣さんは「年を取って物腰が少し柔らかくなった。『頑固なままでいてくれよ』と拍子抜けした」と振り返る。
塩見氏に対する評価は人それぞれだが、大学紛争など新左翼運動が活発だった60~70年代を象徴する人物だったことは間違いない。
塩見氏のフェイスブックの職業欄には「革命家 駐車場管理人」、出身校には「京都大学 革命」と書かれていた。最期まで「活動家であり続けたい」との気概を見せていたのかもしれない。
(「週刊ダイヤモンド」編集部 土本匡孝)