今年4月、市区町村の国民健康保険が発足以来の大改革を行う。

 これまで市区町村が担ってきた国民健康保険(国保)の運営主体を都道府県に移し、広域化によるスケールメリットを打ち出して、財政基盤を立て直すことになったのだ(国保の都道府県移管の詳細は、前回の本コラム「非正規雇用と無職で8割を占める国民健康保険、制度存続の正念場へ」参照)。

 国保加入者は相対的に所得が低いため、集められる保険料には限界がある。一方で、平均年齢は高いので病気やケガをする人は多く、医療費はたくさんかかる。加入者の構造上の問題から、他の健康保険に比べると国保の運営は厳しく、恒常的な赤字に悩まされてきた。

 今回の改革は、国保財政の安定化という懸案事項を解決するために行われるものだが、そもそもなぜ国保は市区町村で運営されてきたのだろうか。人口規模も財政規模も小さな市区町村による運営は、早かれ遅かれ財政的に行き詰まることは、当時、制度作りに携わった人たちも予想できたはずだ。

 そこをあえて市町村にしたのにはなぜなのか。今回は国保の運営主体が市区町村になった理由を探り、今に生かす知恵を過去から学びたい。

農民漁民、自営業のために
誕生した国民健康保険

 現行法の前身である国民健康保険法(旧国保法)が施行されたのは、戦前の1938年(昭和13年)7月1日。今からちょうど80年前のことだった。

 当時、工場や炭鉱で働く労働者、会社員など、いわゆる被用者を対象とする健康保険はすでに作られていたものの、農民や漁民、都市部の自営業者などをカバーする公的な健康保険はなく、医療を受けられない人も多かった。とくに農村部の貧困はすさまじく、病気になると田畑や家どころか、娘を身売りして医者にかかるといった悲劇が常態化していたのだ。

 そこで、農林水産業者や自営業者などの医療費の負担を抑えるために制定されたのが旧国保法で、これが今に続く市町村国保の始まりだ。ただし、今のように強制性はなく、任意組織という位置づけで、市町村単位の「普通国保組合」と同業同種で運営する「特別国保組合」が組織された。

 こうして始まった国保組合だが、太平洋戦争の激化とともに衰退。敗戦直後は8割以上の組合が機能していなかった。だが、連合国軍総司令部(GHQ)の勧告もあり、1947年(昭和22年)に国からの大規模な財政支援を受けて息を吹き返し、翌1948年(昭和23年)7月に旧国保法が改正される。

 この時、それまで任意組織だった国保は市町村公営に改められ、徐々に安定した運営ができるようにはなった。しかし、その後も国保を持たない市町村もあり、なんの健康保険にも入れない人が1956年(昭和31年)3月末時点で約3000万人(当時の人口の3分の1)もいた。それは、やがて大きな社会問題となる。

新国保法の審議過程ですでに
都道府県化は提唱されていた

 当時は終戦から10年が経過し、食うや食わずの暮らしから抜け出し、経済が安定し始めたときだ。こうした社会情勢を背景に、「健康保険を全国民に普及させよう」という機運が高まり、1958年(昭和33年)12月に現行の「国民健康保険法(新国保法)」が施行されることになったのだ。

 旧法から新法への移行は国保を広域化する最大のチャンスだったが、この時も運営主体は市町村とされ、すべての市町村に公営国保の設立を義務づけることで、1961年(昭和36年)までに国民皆保険の実現を目指すことになった。

 だが、法案作りの過程では都道府県への広域化を提唱する声もあり、当時の社会保障制度審議会(社会保障制度についての調査や審議、勧告を行う首相の諮問機関)が1956年(昭和31年)11月に出した勧告には、次のような記述がある。

 第四章 国民健康保険
 二、国民健康保険の経営主体

 国民健康保険に経営主体については議論がある。現行のごとく市町村のままでは保険経済の範囲がときには余りに狭いため、保険の運営が困難であるし、医療機関の充実をはかる上においても範囲が狭すぎるなどの欠陥があるから、この際これを都道府県の経営あるいは都道府県を範囲とする組合経営に移してはどうかという主張も見受ける。

 人口規模の小さな市町村による国保運営の問題点を指摘しており、当時から都道府県の運営に見直すべきという意見があったことがうかがえる。だが、すでに市町村単位で運営する仕組みが出来上がっており、さまざまな利害関係者がかかわっている。それをいきなり変えるのは簡単なことではない。

 そのため、勧告では「当分の間はむしろ保険に対する責任を身近か(ママ)に感ぜしめ、その自主的創意をはかる万策をとるべきであって、そのためには、市町村の経営による形式を推し進めて行くのが妥当であるように思われる。」と、現実的な落としどころを提示するにとどまった。

 もうひとつ、国保の都道府県化が実現しなかったのは、行政と医師会との力関係が影響していた。当時、厚生省(現・厚生労働省)の保険課長だった伊部英夫の証言がそれを物語っている。

 法案づくりに当たっての最大の焦点は、国保の運営主体を市町村にするか、都道府県にするかという問題だった。「局議で一番もめた」と伊部は回顧している。前述のように、制度審は都道府県運営案を提言していた。伊部は市町村主体説を主張した。「僕のつもりは、健保組合と医師会を考えると、健保組合には医師会に対抗するような政治力はない。いまはどうか知らないが。やっぱり町村長をそちらに結びつけて、医師会とのバランスをとらないと、健康保険全体の動きはどうなるかということが基本にあった」と語る。【有岡二郎著「戦後医療の五十年 医療保険制度の舞台裏」(日本医事新報社)より】※太字は筆者

 医師会は医師の職能団体で、日本医師会を中心に、その下部組織として都道府県医師会、群市区医師会が存在する。それぞれの地域で医療体制を守るための中心的な役割を担っているが、医師の利害を代弁する利益者団体としての側面も持っており、政治的にも大きな発言力を持っている。

 2018年度の診療報酬改定でも、医師会に配慮する形で医療機関の報酬が引き上げられており、その力は今も昔も変わらない。当時の行政官たちは、医師会と対抗できる市町村首長の力を借りるために、国保の運営主体を市町村にしたという事情がうかがえる。社会保障の専門家たちが保険財政の先行きを考えて都道府県化を進言していたにもかかわらず、政治的な事情が優先されたのだ。

 その結果、1958年の新国保法でも都道府県化は行われず、20%の国庫負担のほか、調整交付金制度などを新設して、国からの財政援助を明確にすることで市町村による運営が続けられることになったのだ。

小幅な改革を繰り返すことで
制度の持続可能性を高めるしかない

 歴史に「もしも」はない。だが、「あの時」運営主体が都道府県になっていれば、今、これほどまでに国保財政が痛んではいなかったかもしれない。

 だが、時計の針を戻すことはできない。今ある制度は、これまでの歴史の積み重ねの上に成り立っている。

 そして、ひとたび制度がつくられると、それをよりどころとする人々が生まれる。とくに、医療を取り巻く世界には、治療を受ける患者、診療する医療者、保険料を負担する加入者、医療費を支払う保険者、国の財政担当者や政策担当者などの利害関係者が数多く存在する。それぞれの事情が複雑に絡み合っているため、一度作られた制度は簡単には変えられないのだ。

 しかも、医療制度は人の命や健康を左右する。制度変更の狭間で医療を受けられなくなる人を出すことは絶対に許されない。国保の運営主体をめぐる制度改正の議論は、それがよいか悪いかは別として、一度できあがったものを改革することの難しさを教えてくれている。

 その後、大方の予想通り国保財政は厳しさを増し、国からの財政支援だけでは運営が難しくなり、1988年からは都道府県からも財政支援をする仕組みが導入された。そして、少しずつ小幅な改革を加えながら、創設から80年たった今年、とうとう国保の財政基盤が市町村から都道府県に移行されることになったのだ。

 医療や介護の問題を解決しようとするとき、目の前で起こっている事象だけを切り取って「抜本改革が必要だ」と謳う人は多い。たしかに、安定的にこの国の健康保険を運営していくためには、「被用者保険と国保を統一して、地域保険一本にするべきだ」といった意見も一理あるように思う。

 だが、国保の財政問題が80年前から脈々と続いてきたように、一度作られたものを何もなかったことにして、一足飛びに他の制度にすることはできない。制度改革の狭間で医療を受けられない人が出ないように、少しずつ小幅な改革を繰り返すことでしか、この国の医療制度の持続可能性を高めていくことはできないのだ。

 それは市町村による国保運営の危うさを多くの人が認めながらも、80年間変えられなかったという事実が何よりの証明ではないだろうか。だからこそ歴史から学び、過去の失敗を繰り返さないようにすることが大切なのだと思う。

 2018年4月、積年の思いが込められた国保の財政基盤の都道府県化が実現する。これは、ある意味では奇跡的なことだ。1938年、1948年、1958年。国保の制度作りに携わった先人たちは、2018年の改革をどのような思いで見ているのだろうか。

 自分たちができなかったことを成しとげた未来に、苦笑いしながらも「よくやった」と誉めてくれているのではないかと思う。(敬称略)

(フリーライター 早川幸子)