デンタルサポート社長 寒竹郁夫
Photo by Kazutoshi Sumitomo

 歯科医院へ通院することができない高齢者が、自宅や介護施設に居ながらにして高度な歯科治療を受けられる──。デンタルサポートが手がける訪問歯科診療は、歯科医師、歯科衛生士らが1チームとなって、医療機器とともに専用車で出張するサービス。出張費はいっさいかからないので、患者は、歯科医院と同等の治療を、同じ費用負担で受けられる。

 デンタルサポート社長の寒竹郁夫が、歯科医師の道へ進んだのは必然だった。開業歯科医の父は、長男の寒竹を後継に、次男を医師にすることを望み、幼少期から、寒竹もそうなることが定めと受け入れた。

 予定どおり大学歯学部へ進んだ寒竹だったが、臨床よりもワクチンの研究に夢中になった。「歯科医師が男子一生の仕事とは思えない時期もあり」、予定よりも長い11年間の大学・大学院生活を送った。

 29歳で歯科医院を開業。経営は安泰とはいえなかった。「1日に患者15人を治療して収支がトントンになる程度」で、夜間・休日診療を増やしても人件費がかさむばかり。町医者稼業の限界を感じていた。「企業体でないと、優秀な人材も、先行投資に必要な資金も集まらない」として、歯科医療に企業経営の考え方を持ち込むことを決意した。母体となる会社設立を経て、1998年に株式会社としてデンタルサポートを発足させた。

 その過程で、医療法人設立をもって医科へ進出、国内初となる訪問歯科診療も手がけた。2008年に介護事業へも参入、現在では、歯科、医科、介護のワンストップサービスを実現する企業体へ成長した。

コムスン買収の脅威と歯科医師会からの猛反発
危機が組織を成長させた

 最大の経営危機は、在宅介護事業者のコムスンによって仕掛けられた買収の脅威である。両社は顧客基盤が重複することから事業提携を締結したパートナーであったのだが、2000年に、訪問歯科市場の成長性を睨んだコムスンがデンタルサポート買収の打診をしてきた。自主独立路線を貫きたい寒竹はその申し出を断ったが、話はそれだけではすまなかった。

 まもなくして、寒竹が朝出社してみると、幹部社員や歯科医師など従業員がごっそり引き抜かれ、蓄積したデータ、マニュアルも消えて、オフィスがもぬけの殻と化していた。最終的に訴訟へ発展し、互いの株式を等価交換することで決着をみたが、寒竹にしてみれば、庇を貸して母屋を取られたようなものだ。

 危機は続いた。97年に訪問歯科診療へ進出し、日本で初めて訪問歯科の事業化を図ったが、日本歯科医師会や行政といった守旧派勢力からの猛反発を食らった。当時、訪問診療とは、たまに医師が鞄一つで駆けつけるボランティアとして位置づけられており、守旧派は「ボランティアで金儲けするとは何事か」と反発したのだ。