「三方一両損」の生存戦略

 大岡裁きの「三方一両損」なんていうソリューションはヨーロッパ人はまず受け付けてくれないでしょう。なぜきちっと決着をつけないのか、と。サンデル教授の「ハーバード白熱教室」ってありましたけど、日本人だったら、「さあ、正解はどっちだ」と切り立てられたら、「まあ、そう言わずに、どうですお茶でも一杯」というかたちで「白熱しない」方向に誘い込もうとするんじゃないでしょうか。

 ハリウッド映画を見ていると、組織内でさまざまな利害や立場が衝突してたいへん険悪になるという場面によくお目にかかります。でも、あれこれの言い分にすべて耳を傾けて、全員が納得するような「あっと驚く落としどころ」を提案する上司というのは、まず見ることがありません。激烈なディベートのあとに、誰かの意見が「正しい」ということになって、意見が通らなかった者は憤然と席を蹴って会議室を出てゆく。

 欧米風というのは、自分のやりたいことを旗幟鮮明に掲げて、そのアジェンダに賛成する人間を登用し、反対する人間は排除するというシンプルなものです。その方が「話が早い」と人々は信じている。

 でも、日本人はちょっと違う。「いや~、悪いねえ。どう、今回はちょっと泣いてくれない? いや、悪いようにはしないよ。次には必ず埋め合わせするから」みたいなやりとりのことを「仕事」だと称している。欧米のビジネスマンだったら、「そのどこが仕事なんだよ」と怒り出すでしょうね。

 でもそれは、しようがないと思うんです。「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力」こそが列島住民が生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。列島住民たちはそういう生存戦略で2000年くらいやってきたわけで、今さら変えろといわれても無理ですよ。

 ですから、「最近、自由がなくなってきたと感じる」という編集者の声があったそうですけれど、僕はそれは違うと思います。自由なんか前からなかったんだから。

 僕が学生だった時代、60年代末から70年代初め、大学はほとんど無法地帯だったわけですけれども、「無法」ではあったけれど、「自由」ではなかった。だって、どういうふうに「無法」にふるまうかについて定型があって、それに従わないと処罰されたから。

 それは校則が煩わしいと言って反抗する高校生たちの反抗の仕方が定型的であるのと同じです。「型にはまりたくない」と言う少年少女たちが定型的な服装をして、定型的な言葉遣いをして「定型に反抗する」。それのどこに「自由」があるんだろうと思います。

 でも、僕はそれが「悪い」と言ってるわけじゃないんですよ。そういう定型的な生き方をする人たちが求めているものは「自由」ではないと申し上げているだけです。たぶん彼らが求めているのは、ある種の「調和」なんだと思います。「調和」と「自由」とはまったく別物です。

 そして、日本人は「調和」のうちに安らぐことを、ヨーロッパ人が「自由」のうちに安らぐことを求めるのと同じくらい切実に求めているのであって、それはそれで一つの「種族の文化」だと思っているのです。