東日本大震災の大津波によって、児童・教職員84人という、あまりにも大きな犠牲が出た石巻市立大川小学校。当連載では、1回目に、震災から1年3ヵ月目の遺族の実情、2回目は、教育委員会が計画した第三者委員会設置の意味について、取り上げてきた。3回目の今回は、遺族が指摘する調査記録の主な不審点を紹介する。
Photo by Yoriko Kato
校長が、登校式を行いたいと言っている――。
震災から、まだ2週間あまりのある日、石巻市立大川小学校のPTA会長のもとに、柏葉照幸校長(当時)が登校式の相談をしてきたという話を、遺族の紫桃隆洋さんは聞いた。紫桃さんは5年生の次女、千聖(ちさと)さんを失いながら、地域の消防団として捜索にも参加していた。
児童を間借り先の学校へ登校させるという日は3月29日。
「まだ見つかっていない子どもたちも少なくないのに、校長は何を言いだすんだ」
会長は校長をそんな風に叱りつけたということだった。
学校の建つ釜谷地区は、小さな集落だが、石巻市内でも突出して遺体発見数が多かった。まさしく全滅となった地区で、津波襲来まで大川小に残っていた89人の児童・教職員のうち、助かったのはたった4人。その頃はまだ、行方の分からない家族や知り合いの手がかりを探す人たちで、校舎周辺はいつも騒然としていた。
「まさか、登校式はやらないだろうと思っていたら、30日には、登校式の様子が報道されたっちゃ。そのなかで、校長が、<友達は少なくなったが、笑顔がいっぱいの学校をつくろう>と、子どもたちに呼びかけたとあった」
校長が一度も捜索に立ち会っていないことなど、言いたいことはあったが、初めは、多くを疑ってはいなかった。皆が震災の混乱のただ中にいたから、子どもたちが学校で亡くなったことも、今すぐに、説明を要求しようとも思っていなかった。
しかし、報道で知った校長の言葉に、初めて、強い違和感を覚えた。子どもを亡くした家族は、学校から突然置き去りにされた。
紫桃さんは、同じ遺族の佐藤敏郎さんの家で、やりきれない思いを聞いてもらい始めた。隣の女川町の中学校教諭である佐藤さんは、大川小で6年生の次女みずほさんを亡くしていた。そこに、他の遺族も集まり始め、だんだんと人数が増えていった。
「まだ何も説明してもらっていない」
日に日に意見は強くなっていった。
震災からほぼひと月経った4月9日、こうした遺族からの求めに応じて、ようやく初めての説明会が開かれた。