本連載の第1回と第2回で、日本のLGBT当事者たちの座談会を行なった。今回はサンフランシスコのゲイ・カップルとレズビアン・カップルの誌上座談会を2回にわたりお届けする。登場する4人のなかには、すでにカミングアウトして35年経つ、LGBTの歴史をそのまま歩んできたようなベテランゲイもいる。さまざまな困難を乗り越えてきた彼らの言葉からは、ゲイとして生きるプライドが感じられた。(聞き手/在米ジャーナリスト 瀧口範子)

サンフランシスコ特有の
「ゲイ? それがどうした?」

――アメリカでは、LGBTの権利が広く認められ、今ではオープンにゲイであることを認める若者も多くなっています。ことにここサンフランシスコ地域は、企業のLGBTの受容度が高く、ゲイの人々がさまざまな職場についているのを目にします。みなさんは、アメリカ社会がLGBTに対する意識を大きく変化させる中で成人し、仕事をされてきました。その体験や、今でも感じる抵抗はどんなものかについて伺いたいと思います。まず、簡単な自己紹介と、カミングアウトをした経緯についてお話しください。

ピーター・ワイズナーさん(左)とジョン・ハドソンさん(右)
Photo by Noriko Takiguchi

ピーター・ワイズナーさん:僕は今、56歳ですが、40代半ばまでカミングアウトはしませんでした。最初に仕事を始めたのはボストンの保険会社です。当時は時代も環境も保守的で、また自分自身の性的指向もはっきり自覚していませんでした。

 その後、セラピーを受け、時間をかけて自覚していったのですが、保険会社ではホモフォービア的な(ゲイを嫌悪する)言葉もよく耳にし、カミングアウトする勇気はありませんでした。スポーツをしていたので、その影に隠れていた感じです。その後、保険会社を辞めて大学へ戻り、卒業後サンフランシスコへ引っ越しました。そのころは、1985年前後で、エイズ禍がピークにあった頃です。その頃でも、家族は僕がゲイだと知っていましたが、他人に対しては黙っていました。2001年に現在務めている大手医療関連企業に転職し、ようやく企業人としても周囲に自然にカミングアウトしたといったところです。この企業は、ゲイであることを無理に明かす必要も隠す必要もないといった環境で、ゲイのソフトボール・チームに加わったりする中で、自然にカミングアウトしたのです。

ジョン・ハドソンさん:僕は、60年代後半にデザイナーの仕事に就きました。南部の州でのことで、当時はゲイのことなど決して話題にできない環境でした。回りでは「queer」といった言葉が、ゲイを軽蔑する意味で、よく使われていました(現在はqueerは肯定的な意味で使われることが多い)。