東日本大震災の大津波によって、児童・教職員84人という世界でも例のない犠牲者が出た石巻市立大川小学校。震災から1年5ヵ月が経過したが、なぜこれほどの児童・教職員が犠牲にならなければならなかったのか、今もまだ真実は明らかになっていない。
石巻市教育委員会が公表した報告書によると、児童たちは津波が来る5~10分前には、三角地帯に向けて避難を始めていたことになっていた。しかし私たちは、大津波が来る直前に大川小の校庭で何人かの人影を目撃したという地域の数少ない生還者たちに出会い、証言を得た。
大川小学校の周囲には、県道を中心に140軒近い釜谷地区の集落があった。しかし、いまは大地に校舎の廃墟がポツンと佇むだけで、集落は夢の跡のように消えてしまった。
その津波が来る直前まで集落にいた数少ない生還者の中に、学校の様子を目撃した地域の人たちもいる。
間一髪で大川小児童の甥と姪を救出!
津波襲来直前の学校を知る女性の証言
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小野寺あやさんは、当時小学5年生の長女、2年生の次女、1年生の長男を大川小へ通わせていた。震災当日は、妹に子どもたちを学校まで迎えに行ってもらったため、津波が来る前に間一髪、3人を学校から連れ出すことができた。今回は、その妹に代わって、小野寺さんに話を聞くことができた。
「妹は、いつもなら仕事だったのに、その日に限って歯医者か何かで、仕事を休んでいたんです」
その日たまたま、小野寺さんの妹は、おばあさんと一緒に、釜谷地区の県道から路地裏に入った(北上川の脇を平行に流れる)富士川の堤防近くの実家にいた。小野寺さんの自宅も、同じ釜谷地区にある。
市内で仕事をしていた小野寺さんは、ラジオで「6メートルの津波が来る」と聞いて、妹に何度も電話した。ほどなく電話はつながって、「6メートルの津波が来るから、早く逃げろ!」と言った。それっきり、電話は通じなくなった。
「お母さんがよく、“地震が来たら、学校を見に行って”って言っていたので、妹が走って見に行ってくれたみたいなんです。それが15時過ぎくらいでした」
妹は学校で、津波で亡くなった同級生の子どもと話をした。そのときは、子どもたちも、校庭に並んでいたという。
妹は、小野寺さんの子どもたちがどこにいるのか全然わからなかったため、3人の名前を呼んだ。すると、子どもたちは、ワーッと列の中から飛び出してきたという。