政権奪取以降の民主党
情報公開「逆行」の歴史

「まだ、そんなことをやっているのか?」

 朝日新聞の元政治部幹部と電話で話していると、呆れた口調でこう言う。

 民主党代表選、日本記者クラブで開かれた「公開討論会」は、あたかも「非公開討論会」とでも名称変更した方がいいようなひどい有様だった。

 オープンな政治を掲げて1996年にその産声をあげた民主党、1998年の新民主党、2003年の自由党等の合併などで野党として力をつけ、2009年には悲願の政権奪取を実現する。だが、それ以降は、官報複合体に操られる、自民党と同じ、いやそれ以上に古い政治体制に成り下がってしまった。

 それは、情報の隠蔽という現代民主主義国家に反する数々の所作で象徴的に明らかになってくる。

 2009年9月、政権奪取でそれまで海外メディア、雑誌、ネット、そしてフリーランスにまで認めていた記者会見への参加を、内閣官房の要である平野博文官房長官の裏切りによって、記者クラブ独占の古いスタイルに戻してしまった。

 ただ、まだマシだったのは、その鳩山政権では、2010年3月までの半年間に、その記者クラブシステムの欺瞞に気付いた閣僚たちが、次々と記者会見をオープンにしていったことだった。

 岡田克也外相、亀井静香金融相、原口一博総務相、小沢鋭仁環境相、枝野幸男行革担当相、そして鳩山由紀夫首相などが次々と会見をオープン化させ、公的情報へのアクセス権を報道に開放していった。

 しかし、次の菅政権になると、枝野幸男官房長官と細野豪志原発担当相が新たに会見をオープンにしただけで、前原誠司外相などの会見時間短縮などの例が顕著であるように、その流れは縮小し始める(肩書きはいずれも当時)。