現在の「過激派」に若者が集う当然の理由

 一見特異な話のようにも思えるこういった事例は、決して特殊なことではない。

 先述した近年の「過激派つぶし」によって、あるいはつぶされるまでもなく、高齢化やヒト・モノの供給不足によって自然消滅に向かうなかで、「暴力革命」やカルト性を放棄しながら生き長らえる道を選んでいった党派がある。全体から見れば、Aのように結成当初の形態を保ち続けるほうがむしろ特殊であり、NPOになったり、一般の人も手に取れるような媒体を作るようになったりしながら、その暴力性・カルト性を漂白する等の努力のうえに、その多くが「普通の市民」に受け入れられる形に変わろうとしていったのだった。

 そのように、器用に振る舞いながら生き残ること自体は悪いことではなく、むしろ、「暴力革命」やテロを放棄し、一般にも認められる具体的な社会貢献活動を担うようになっていることは評価しなければならない。

 ただ、団体によって程度は違えども、一般社会から見た場合に、少なからぬ異常さの「残余」がそこにあるのも確かだった。

「革命」に向かう姿勢に対する物足りなさや、「一見クリーンに社会変革を求めているようでいて、その内実は、暴力性を消し去った分だけ過激派と同じかそれ以上にカルト化している」陰湿な「残余」に触れた若者の中に、不器用に、オープンに、旧来の作法を守り続けているAのような組織に惹かれていく者があるのも理解できる話だ。そこには、よりわかりやすく、生々しい革命にむけた闘争があるようにも見えるのだから。

「過激派」アジトの革命戦士たちの現在 <br />「普通の市民」の中で合宿所のような共同生活。玄関には靴が溢れている

 彼らの普段のコミュニケーションを見てわかるのは、何より「明るい」ことだ。部屋では冗談も織り交ぜながら楽しそうに会話を交わし、まるで学生の部活動の合宿所や修学旅行に来たかのような錯覚さえ覚えるほどだ。聞けば、セブンイレブンでバイトをし、「和民」や「さくら水産」といったありふれた居酒屋で酒を飲んでカラオケに行き、構成員が結婚するとなるとレストランを貸し切って「祝う会」を開催することもあるという。

 考えてみれば、「過激じゃない派」化してからすでに20年。活動の主軸は、デモ・集会・署名・オルグ(組織拡大)活動という、一般的な社会運動と大差ないものになっている。その中で、「普通」の若者がそこにいることは不思議ではない。

 むろん、彼らが今も掲げ続ける「暴力革命の必要性」は、倫理的・人道的に許されないことは確かだ。今も、彼らの活動に対する周囲の目は厳しい。しかし、「ヘルメットにタオル」「鉄パイプ」「火炎瓶」というイメージもまた、現実とは乖離して来ていることも確かなことである。

 それでは、そんな彼らの「革命」に向けた日々とは、現在いかなる姿を見せているのだろうか。