行政区分が当時と現在では大きく異なっていたということは別にして、明治時代の日本は純然たる農業国で、農村で人手を必要としていたのである。したがって、都市部に比べ農村部の人口が比較的多かった。当時、石川県は現在の富山県と福井県(若狭を除く)も管轄していたが、それを割り引いたとしても、石川県が日本で一番人口が多かったというのは意外だろう。北陸は日本有数の米どころ、農業が盛んな地域だったというのが人口の多かった最大の理由である。2位の新潟県も米の一大生産地だった。

教養としての日本地理浅井建爾著『教養としての日本地理』(エクスナレッジ )

 それに対して、東京府はわずか95.7万人で17位、大阪府はそれよりも少ない58.3万人で34位と下位にランクされている。当時の東京府は現在の特別区(23区)を領域とする非常に面積の狭い地域だったのだ。現在は日本の政治経済文化の中心地として人口が密集する東京だが、当時は都心部を除けば、のどかな田園風景が広がっていた。東京23区の人口は、現在では900万人を突破しているので、当時と比べれば10倍近い増加率である。大阪府の人口が少なかったのも、東京府と事情はよく似ている。

 このように、農業を主産業としていたわが国は、農村地帯に比べ都市部の人口がそれほど多くはなかった。わが国の産業が次第に発展していくのにともない、人が農村から都市へ、地方から大都市圏へ移動していったのである。