1931年1月28日、東京商科大学兼松講堂における第1回目の講演を終えると、午後6時に始まる「シュンペーター歓迎晩餐会」会場の如水会館に向かった。

 日本旅行は神戸商業大学(現在の神戸大学)の招待に応じたものだが、日本初の講演と晩餐会は東京商科大学(現在の一橋大学)とそのOB組織である如水会が押さえたことになる。

 晩餐会の座長は五十嵐直三(1877-1937)。東京電灯取締役、横浜正金銀行取締役など、多くの企業の役員を歴任した財界の大物である。ひとしきり挨拶の交換と食事が終わると大集会室へ移動し、参加者との質疑応答が英語で行なわれた(★注1)。面白いやりとりが記録されている。

 「久我君は銀価暴落の対策なきやと質問し、シュ博士之に対して数々の興深き観察を下した。『昔、或る国はその財政立て直しのために顧問としてある経済学者を聘した。而して、最も必要なる、然しながら、最も、不人気なる政策は凡て此の外国学者の案として、提出せしめた。現時の如き、経済困難に処する方策は何れも不人気は止むを得ざる所、右某国の利用したScapegoatも亦一方便ならんか』と意味深長の言を成した。」(「如水会会報」1931年4月★注2)

 政治に深入りして懲りたシュンペーターの述懐に読める。オーストリア共和国財務相のことを言っているようだが、「外国学者」とあるから、ドイツ社会化委員会委員のことなのかもしれない。あるいは両方合わせているのだろうか。

 翌1月29日午後は、日本経済連盟会と日本工業倶楽部の共催でシュンペーターの講演会が開催された。テーマは「世界不況:とくにアメリカ合衆国に言及しつつ」(★注3)。冒頭、団琢磨(日本経済連盟会会長、日本工業倶楽部理事長、三井合名理事長1858-1932)が演者を紹介した。

 これは前年末にアメリカ経済学会で行なった講演と同じ内容のものだったと思われるので少しくわしく紹介する。が、その前にシュンペーター来日前後の日本経済の状況を概観しておこう。

井上大蔵相の就任による
金解禁で大デフレに…

 1929年10月のウォール街大暴落前より、欧州と日本は不況期に入っている。1929暦年の日本の国民総支出(現在の国内総生産=GDPとほぼ同じ)の成長率は物価上昇率を加えた名目で▲1.3%、実質で0.5%である。ゼロ近傍であり、停滞かややデフレだ。

 この年の7月2日、前日本銀行総裁、井上準之助(1869-1932)が浜口雄幸民政党内閣の大蔵大臣に就任し、金解禁の準備をはじめる。

 金解禁とは、国際金本位制に復帰するという意味だ。為替レートの水準を第1次大戦前の旧平価にするか新平価(当時の現行水準)にするかで議論が続いていた。これを金解禁論争という。旧平価は新平価に対して円高である。井上蔵相は旧平価で解禁する方針だった。ちなみに、英国は1925年に旧平価で解禁していた。

 井上蔵相は7月29日に緊縮財政案を発表し、11月21日に金輸出解禁の大蔵省令を交付、翌1930年1月11日に旧平価で金本位制復帰に踏み切った。現在の経済学の知見からすれば、不況期にあえて円高水準を選び、緊縮財政にしたのだから大不況になってしまう。